①郷士のあれこれ

郷士の呼称は土佐に限らず他藩もあり、薩摩藩、水戸藩、東北にも呼称はあった。

しかし郷士の成り立ちは江戸の初期はほぼ同じでも、中期以後、各藩で異なった。

また身分に多少の差別があっても、身分の低い郷士とは一概には言えないし、各藩に分けて成り立ちや身分の高低差と活躍などを取り上げよう。

郷士とは郷の意味で、田舎の侍を指し、お城や館の周りに居住する所謂郭中内にいる上士に対して、在郷の士は全て郷士と呼称、その成り立ちは各藩で違い、江戸中期以後は町人、商人・豪農らが新規及び譲受郷士として現れた。

【薩摩郷士の場合】

薩摩藩の武士たちは城下士と外城士に分かれ城下士とは、鹿児島城の周りに居住した家臣で、お城近くの重臣から、外に広がる順に身分が低く、彼らは薩摩藩の直属の家臣で、西郷、大久保たちも身分は低いが、家代々の禄と誇りを守り、その時代を質素に暮らす家風は、総じて武家の鏡であった。

一方の外城士は、藩主の一門連枝が君臨統治、その家臣は薩摩郷士の呼称で、彼らは農が生業で、間人(もうと)を雇い豊かな日々を暮らしていた。

幕末,薩英戦争後、お家の大事と戊辰戦争から西南戦争まで10数年、彼ら郷士の働きが顕著で、城下士を凌ぎ爵位を授かる士が多いのは、薩摩郷士の特徴で見事に天晴である。

【水戸郷士の場合】

当初は佐竹氏の一門旧臣など、家柄に由緒の有る旧族郷士が多い。この点、藩政初期の土佐藩の郷士と成り立ちは変わらない。

しかし、水戸藩の郷士は、役職の上下を別にして藩士と同列であり、その身分は極めて重かった。

幕末、藩政改革の中で重要な役割は無論、水戸藩の重役と学者が担い、各部署に指示を出し、控える藩士と役職上多寡はあるが、郷士の働きは各藩で顕著であった。

薩摩郷士・水戸郷士・土佐郷士たちも常に末席に控えて行動、その役職以上の成果を出していたのも郷士たちで、「癸丑以来」(ペリー来航の年)の大変から、安政の大獄に当時の水戸藩は世を憂い窮地脱出に策を求めた。

郷周りの役人たちは郷士と結び、桜田門外の変を決行し成功した。

その後政治は京都に移り、有力大名と結んだ公家は政治に大きな力を出した。当時の流行言葉、「勤王の志士」が跋扈、彼らは郷士でも学問を収めたインテリであった。

水戸藩は天下にさきがけ、政治の一新に努め安政の不平等条約と勅許を無視した幕府を批判。水戸学の意見も噴出、総じて許しがたく天下の副将軍、ご三家の面目にかけて過激な一部が密かに暗躍する時が来ていた。

政治は京都に移り前述した勤王の志士の時代が到来。長州・薩摩・土佐は雄藩で、長州は鷹司家、薩摩は近衛家、土佐は正親町三条家というように公家と手を結んだ。

②土佐の郷士

土佐の郷士に触れよう。佐竹氏の遺臣は水戸領内に残り、後に郷士として藩士と同等の身分を得るは前述の通りで、この成り立ちは、土佐の郷士と似通っても土佐の場合は身分が少し違う。長い長曽我部時代が続き、関ヶ原の合戦に敗れた長宗我部の家臣の多くは土佐を去り、残った一領具足の旧臣たちに土佐藩は新田開発に100人を農地開拓者と定めた。所謂「慶長郷士」の誕生である。

土佐の香長平野(高知平野のうち、旧香美郡および旧長岡郡の場所)は広い。この広大な荒れ地に対する新田開発の構想は、土佐藩の誕生間もない慶長年間で、開発せざるを得ない大きな問題があった。長宗我部の残党で一領具足達に農地を与える策として新田開発を興し、平野全体に対する水量の確保は物部川に堰を構築することで対応した。この遠大な普請の完成には数十年の歳月を要し、100人衆「郷士」の力量が発揮された。爾来数百年の歳月を守ってきた、野市・香長地区の農民の弛まぬ努力と使命に守られた「山田堰」であった。

※山田堰は香長平野の山田地区(現在の土佐山田地区)にある堰(小さなダム)のこと。

上流数百mに新設して50年。旧堰の一部は左岸と右岸に残し、往時の規模等が偲ばれる。

土佐藩の「郷士制度」は先述の新田開発を一家族30石(3町歩)の土地を切り開くことが条件で100人を募集した「慶長郷士」で100人衆郷士とも呼ばれた。彼たちは、由緒ある長宗我部の旧家臣たちへの、懐柔策であった。土佐藩は次いで100人並み「郷士」の政策に移り、土佐全域で「郷士」を育てた。

土佐で土木普請の責任者は、野中伝右衛門良継である。彼は兼山先生と呼ばれており、土佐人で知らない人は皆無であろう。彼は、興す普請の全てを郷士たちに任せている。布師田(ぬのしだ)の郷士、一木権兵衛政利は、任された室津の海底に暗礁があり、除去に手間取ったため、数か月間、「我、人柱とならん」と海神に祈願した。暗礁は漸く取り除き港に出入りする漁民は喜び勇み、「権兵衛様」と屋敷に伺えば、時すでに命は絶えていた。

嘆く漁民たちは神社を建立して命日を祭り、今日に受け繋げている。室戸の漁民たちは一木神社に参集することで海での安全祈願に詣でるという。

土木普請に顕著な功績を残した兼山先生は、子飼いの「郷士」たちを、技術者として数名を育てた。彼らの名前は列挙できないが、土佐全域で「郷士」たちは、手となり足となって、今日の農地、港、堰・堤防、疏水(そすい:他の水源から水を引く目的で造られた水路のこと)などが、今でも現役で稼動している。これらはいずれも不名の「郷士」が成し得た普請である。我々は下級の「郷士」たちの功績が今の生活に密着していることを忘れてはいけない。

厳しい審査でパスして成立した郷士層に少しの変化を見せ始めたのは、江戸の中期である。お米経済で何不自由なく暮らす郷士たちで、郷士の株を手放す輩が現れてきた。彼らはそれぞれ、それなりの理由もあろうが、3代目となれば,貧冨の差が顕著に表れた。

居住すれば地下浪人として苗字帯刀が許され、「郷士」の風格はあり、買った町人、商人、豪農の何れかは「譲受郷士」と呼ばれた。

藩に献金を、見返りに郷士株を取得した商人、豪農は、土佐、薩摩、水戸におり、天保年間にこの制度化は廃止された。

③武門の家柄としての土佐山内家

土佐山内家は武門の家柄である。近江の長浜で天正の頃、一豊候は家臣祖父江家の門前に於いて、馬に乗って疾駆する行事を行い、自らは審査の役であった。以後土佐に於いて恒例の行事として、毎年の正月11日と定め、郭中「乗り出し地点から堀詰」のおよそ2キロ余を馬で疾駆、所謂「馭り初め(のりはじめ)」の行事である。

武家の誉としたこの行事は、家中で自慢の一つであった。時代は下り17世紀の中期には、郷士たちも参加、一層の豪華さを醸し出す。郷士と家臣団の身分的な差別もあって、郷士対家中の士に於いては対立の構図が一部に生まれた。

この例を見るまでもなく、下士であっても日々研鑽して、上士に負けない気分を養う訓練は日常的で、自費の馬で見事に疾駆を果たした郷士たちであった。

余談ながら、この儀式とは別に、家老の11家が、船で覇を競う行事もあったという。浦戸湾を北進し、丸山台へつながる凡そ5キロを競ったという。天下太平の世の中を、贅沢三昧の家臣団に、儀式は武門の因習と家老衆は見せ示したのである。

余談だが、郷士たちは家老に属していた。この関係は、似ても似つかない程の身分的な差があった。しかし、この差は経済的な差とはまた違うので世の中は面白い。因みに龍馬の坂本家は、農地17町歩、山林は無数にあって実質数千石の資産があったという。この坂本家は家老福岡家に属して、有事の際は定めた家老の基に駆け付ける習わしで、江戸の一時期は数千人の郷士がいたという。

土佐藩の家臣団は上士と下士に分かれて、上士は家老、中老、馬廻り、小姓、留守居組の5段階だった。下士は郷士、足軽、徒歩、その他であって、この様な身分で江戸期を暮らしており、下士は不平不満のはけ口がどこにもない悶々の日々を過ごした。

現在の井口町に浄土真宗の永福寺がある。幕末の文久元年3月3日桃の節句に寺の門前で上士と下士の殺傷事件が起きた。山内家臣の上士と郷士である。山田(上士)と中平(郷士)は少し肩が触れる程度であったが、覗き込む山田は中平を見て、「己待ちやがれ」といきなり抜刀し横殴りで切り倒した。即死である。連れの宇賀喜久馬(寺田寅彦の叔父)は兄の池田虎之助を呼びに行き、やがて来た池田は、山田を切り伏せて絶命させた。上士と下士の衝突の一例である。

文政年間に土佐7郡の内、香美郡、長岡郡の地区で郷士の名前、石高、最終身分を調査した平尾先生の資料によれば、300石余の郷士が数名、200石余も数名、100石余も数十名とある。郷士の最低基準の領地は30石で、年貢いらずのため丸取り(全部収入につながった)であった。一方で、間人の経費(年間、数名を雇用)だけでなく、小作料の支払いなどで経費は莫大であった。

※1石を面積に換算した場合だいたい1反(300坪=1000平方メートル)

土佐藩の家臣団は身分的な差別が絶対であった。巷間云われている「郷士」は上士の身分にはなれないと、ある小説では記載されている。しかし、ある方の資料によれば、慶長から文政まで凡そ200年間で「郷士」から上士へ出世した者、場合によっては馬廻り200石の上士もいて主に留守居組・小姓組で、郷士の懐柔策としての上士登用制度もあった。

④長宗我部家臣団の懐柔策としての新田開発

江戸期を通して200有余年、「土佐の郷士」は様々な管理を怠らず、精を出して土地を守ってきた。天変地異の自然災害は土佐の宿命で、その度に土木普請の技術は進歩し、石工・測り・鋳掛屋・樽屋・鍛冶職などの技術は向上、自然災害で文化・文明は進歩した。幾度の飢饉を凌いできたのもまた然りである。

江戸中期にお米経済に変化が現れて「郷士」社会にも影響した。先物取引に依存の郷士は株を売り、地下浪人に「新規と譲受郷士」が土佐に現れた。

土佐に伝わる一弦琴がある。幕末に土佐で広まり、明治から大正へ、更に昭和へと伝わった弦楽器である。香南市野市町山北の屋敷跡に由緒書立て札が建ち、この地の「郷士」門田宇平は藩の御用で京都土佐藩邸に勤務していた。傍らで正親町三条家から弦楽器の奥義を受けた。

幕末に豊かな財力を背景に,各地の郷士たちは高知に移住した。須崎の市川氏、大野見の宇賀氏、岩村の岡田氏、吹井の武市氏、山北の門田宇平など皆「郷士」である。

市川は、龍馬の日根野道場の先生、宇賀は寺田寅彦の父利正で、永福寺門前事件で切腹した弟の喜久馬を介錯した。利正はこの事を家族にも話さずノイロ-ゼで暗い反面があったという。祖母に聞いた寅彦は随筆、渋柿に数行が書いてある。

岡田は御存じ人切り以蔵である。昔、筆者が通学路の農地を見ていたが、後年屋敷跡と聞き驚いた。武市は半平太先生である。岡田以蔵は武市を師と仰ぎ、縦横に働き、志を先生に捧げた。

京都の役目を終えた門田は高知の居宅で一弦琴の弟子を募り、藩役目の余暇で指導に専念。既存の弦楽器にない音色や音域を作りだした男の指導者として誠に稀有な人材である。一弦琴は女性の分野を打破した楽器としてその功績は誉である。

江戸時代270年の藩政時代の初期に山内家は長宗我部の残党に窮した。山内家臣団の数倍の残党に出た結論は、新田開発で荒れ地に鍬を入れて拓かせ、30石(3町歩)を領地として与える。この政策が功を奏して「慶長郷士」が生まれた。いわば残党の懐柔策として100人を募った。所謂「初期の郷士」100人衆である。

藩はこの策にニンマリ。郷士たちの頑張りで、香長平野にアウトラインを敷き、3本の疎水に支流や小溝を開き、区画に段差を設けるために40年の歳月を要した。

山田堰は竣工し、農地を耕し・三大疎水・支流・小溝は今日も流れており、昔の儘であった。

この大事業を推進、指揮を執ったのは野中兼山先生で、その手先として郷士たちがいた。彼らは子孫繁栄を合言葉に汗水流して頑張り、農民の意見を求めては先生に具申。この農民側にも立ち、艱難辛苦に精神は疲れ果て如何に頑強な郷士でも、兼山先生の普請を追考せざるを得なかった。筆者の生誕地の傍には、往時に普請の苦労が垣間見える。例えば、流れに段差と左岸に支流の疎水を求める場所の頃会いである。近場に2ケ所あり、小さい頃の呼び名がドンドンといった。段差に流れ込む水の消音に巨大な石が数個あり、この疎水は金丸川であった。川幅は2.5mで、子供の水遊びに最適な「ドンドン」で「郷士が行き来した川」でもある。

⑤幕末の志士たち

幕末の郷士たちを取り上げよう。この「郷士」は力溢れる響きがあり、他を圧倒する勢いに押され、「おくれ」を取るなと同士を鼓舞する響きがある。往時「郷士」の苦労・功績・功徳を世に著して、これからの若い世代に正しく伝えていこうと、歴史を嗜む筆者の役目と考えを興し、歴史感覚を更に向上さすが骨子である。

水戸・薩摩・土佐の「郷士」たちは何れの歴史書にも人名・組織名が見える程の「郷士」で、その彼らが生まれる十数年前の文政7年に重大事件が起きた。

イギリスの漁民が水戸藩領大津浜に上陸、彼らは鯨油を求めて、黒潮に群れるクジラを追って操業に従事、長い航海と創業の疲れや、食料不足に絶えきれず漁民12名が同年5月28日上陸、この事件が外国船打ち払い令の契機となった。
事件を処理した晩年の藤田幽谷・会沢正志斎両儒官は、身軽の「水戸郷士」を警備に配置し、万全の態勢でイギリス漁民に食料を与えて事件は解決をみた。

この事件を背景に水戸学は精神の再強化を目指し、会沢正志斎は徳川斉昭公に拝謁、儒官の面目を果たし更に主筆で水戸学に匹敵する「新論」を著し、藩主に上書した。

幕府は水戸に続けと近隣諸侯に激を飛ばし、海防の警備強化を強めと論を説いた。

国難は忘れた頃にやってくる?(寺田寅彦流)の29年後に今度はアメリカ海軍のマシュ-・ぺリ-が来航した。ミラ-ド・フィルモア大統領の親書を携えて、浦賀沖に停泊し、黒船を「郷士」の龍馬が見たと伝わり、攘夷が芽生えた所以である。

癸丑以来の志士誕生で、当時、異国人は怖い存在と中国を通して知り、2度の元寇を台風で乗り切る経験を持ち、鎌倉時代の御家人は見事に攘夷を果たした。

異国人の影響は多少あった。オランダと交易で小さな窓から西洋の事物を生活に取り入れ、蘭学者たちも文化・文明を学問に活かし、学術の向上を進めた。

水戸の大津浜事件は軽傷、ぺリ-の来航は内蔵疾患で臓器は侵され、幕府と衝突の斉昭公は、大獄に蟄居謹慎で藩主を去り、過激な「郷士」は辻説法に及ぶ。

幕府の執った政策は、外圧に屈して勅許を得ずに無断で条約を結んだ。大老 井伊直弼、老中 間部詮勝の二人に指弾の嵐で幕閣は揺れた。攘夷派で水戸の家臣と「郷士」たちが強烈に非難した。ここから井伊の狂気じみた大獄が始まり、大名・識者・思想家・行動派・煽動家・尊王攘夷の志士たちが獄に落ちた。

この大獄は水戸藩が最悪で、薩摩・土佐藩で、藩主豊信は鮫洲に隠居して容堂と号し、15代豊信を容堂と呼ぶ所以である。その後、策を練る水戸藩郷廻りの役人は中堅以上で固め、更に有力な「郷士」数名が参画。彼等は少人数で合議を繰り返し、隠密で連絡間と決めて一芸に優れた「郷士」を選別、合議を重ねて安政7年が明けた。藩重役の高橋多一郎の発した口語に名だたる「郷士」達はゲェ-と驚き、現場指図役の関鉄之助は心得て無言、沈着冷静である。

高橋の示した計画に、記された18名の連判状に持ち場・役目が各自示されて次々と朱印が押された連判状に見入り「水戸郷士」17名・薩摩1名であった。

⑥安政の大獄と郷士たち

水戸藩はご三家で天下の副将軍、諸侯に敬われた藩で学問も一級の朱子学と水戸学で以て尊王攘夷を謳った藩である。藩主斉昭公の側近で学者の藤田東湖・会沢正志斎・豊田天功らを招き、光圀以来の水戸学の王伝は期を見ては伝えていた。この藩主直伝は藩士たちへ伝わり、水戸藩の尊王論になっていた。

大老 井伊直弼 登城の際を襲う。高橋多一郎・金子孫次郎の藩重役から聞かされた、襲撃側の指揮者、関鉄之助は全体を見まわした際に、余りの緊張に呼吸も乱れ、その重大な行いがいかに例外な事の恐ろしさが、体に溢れてきても拭い去ることができない程に硬く凝っているが如くに動かない体になっていた。

この暗殺団は水戸藩が17名、薩摩藩が1名であった。彼らのほとんどが「郷士」である。藩に迷惑を思って、脱藩の手続きを提出、夜間に行動すること20日余りで皆がそろって3人5人4人に分かれて下見、その日の行動と持ち場を確認し、それぞれが帰路につき、下宿先でも揃って持ち場を再確認。用意周到である。

安政7年3月3日、雪の降る桜田門を目差した井伊の籠が行く。路傍に武官の鏡を手にして見物人にまぎれた水戸浪士 関 鉄之助の合図として、一発の銃声がなり、時の声を発して、籠を目差して突き進み、乱闘20分余りで籠から井伊を引き出して首を撥ねた有村次左衛門は勝どきの声を上げた。薩摩藩の志士で兄の雄助は帰藩命令に従った。この有村3兄弟は有名で残った長兄、有村俊斎、後の海江田信義は西郷隆盛に可愛がられた城下士で、明治に政治家として爵位に列した。

井伊大老の暗殺は、政治的な影響を幕府に与えた。旧水戸藩の浮浪士とはいえ、元は佐竹の家臣である「郷士」の僅か17名(プラス1)に襲われたのである。油断を批判した江戸の庶民たちの評が江戸城に聞こえたからである。事件後2週間余で、年号を万延に改元する程の衝撃を幕府に与えた。水戸の「郷士」17名であった。

万延2年は2月19日、文久と改元した。いかに天下のご時世に不安と不評が蔓延していたかこのことだけでも見当がつくものである。

当時京都では公家が力を出し始めた。薩摩の近衛家、長州の鷹司家、土佐の三条家、この様に西国の有力大名は公家と結び、発言を強めた。

土佐の場合を取り上げる。万延から文久にかけて政治は半ば京都が中心となり、京都土佐藩邸は急に盛り上がり、市中の警護や藩邸の守りなど藩士は多忙を極めた。土佐藩士にも限りがあり、そのため、多くの「郷士」が京都藩邸の警護に召しだされた。藩主容堂候が安政の大獄で江戸の鮫洲に隠居を余儀なくさせられ、警護の「郷士」を募った。撰に漏れた大勢の「郷士」たちは藩庁に願うも却下、遂に強硬策に打って出た。

藩庁に却下された「郷士」たちは徒党を組んで江戸を目指した。家中の藩士も真似のできない「郷士」がとった行動が、脱藩に抵触する恐れがあり、遂に藩庁は「郷士」たちの願いを受け付けた。「郷士」たちの喜びは一重に語り得ない喜びであった。「土佐郷士」の50人組として特に有名な行動であった。裕福な「郷士」は少なく、田畑を処分して路銀調達をして江戸を目差したのである。

⑦安政の大獄後の土佐藩

土佐藩の「郷士」は下士である。長年の功績や多くの役知所有者は優遇制度的で上士へ登用されている。その途中なのか「白札郷士」の名称がある。武市半平太・望月亀弥太がそうで、龍馬の父方の山本家・宮地家も白札である。

この文久元年、江戸に於いて武市・大石・間崎・門田・その他数名が江戸藩邸で議を開き国体論に触れ、天子様を敬うことを藩主と家臣に説いた。武市の思いは、勤王の精神が多分に有り、我々は組織を以て国体論を展開、各藩の意識を高めて神国日本を揺るがす異国人を今、各藩で打ち払うが大望であると力説した。

この政治運動は日本最初の政党で歴史的価値が高く、他藩の意識も高く、薩摩・長州・水戸を凌ぐ勢いで、文久元年8月、江戸に於いて結党した。8名が連判状に血判を押した。盟主、武市半平太・大石弥太郎・間崎哲馬・門田云々等、皆一級の「郷士」であった。その後、武市は土佐に帰り久方ぶりに坂本家を訪れた。

坂本家と武市家は、潮江で父方の山本家を介して親戚の繋がりがある。その縁で訪ねた半平太は、年少の龍馬に接して、政党「土佐勤王党」結成の要旨で入党の快諾を得た。この様にして同志を募り、一年余で「郷士と庄屋」で192名の同志は朱印を遮り、一同が血判を押した「土佐勤王党の連判状」である。

文久元年は無事な年で、明けた2年は勤王党の天下であった。土佐で名を成し、京都では党員の自由闊達の政治運動も進み、天誅を叫ぶ輩が横行した京都は、薩摩を凌ぐ長州の天下で、藩邸の上士や下士も喜び勇んでいたが、文久2年6月、最初の犠牲者が処罰された。間崎哲馬・弘瀬健太・平井収二郎の3名が切腹をした。彼たちは改革の進まぬ藩を嘆き、京都青蓮院の宮に懇願、藩庁に差し出す令旨を受け取って帰藩、喜び勇み党員三者連名で藩庁へ差し出した。

隠居容堂候は事の次第に激怒、召喚された3名は山田町の牢獄へ入れられ、6月に取り調べを受けて処罰された。間崎以外は郷士より更に下の士であった。

同じ頃、京都では薩摩と会津連合で天地逆転を目論む空気が流れていた。日々起こる天誅の嵐は収まらず、開けた文久3年、京都守護職、会津藩主松平容保率いる傘下の一団が入京してきた。泣く子も黙る恐ろしい新選組の集団である。

文久3年8月、京都では天誅の嵐は収まらず、勤王の志士を名乗る浮浪の輩は、畿内を縦横に荒らしている反面、長州の過激派は政治的に密かに8月18日、孝明天皇の大和行幸の決行日と定め、その露払いに天誅組を目論んでいた。

この予定に寸分狂わず、大和の五条代官所が血祭りになった。土佐の大庄屋、吉村虎太郎率いる天誅組の乱で、文久3年8月17日であった。土佐の「郷士」、庄屋、その他多数が大和に狼煙を上げたが、その後、敗残兵となって鎮圧された。

余談であるが、奈良県に十津川村という村がある。明治の中期、未曾有の災害で北海道の太平洋側に移住した。その数900余名で村民の四分の一であった。そのご子孫たちは新十津川町で今も豊かに暮らし、奈良の十津川村と密に交流が続いていると聞いている。

⑧天誅組

余談として、幕末期の十津川村は林業と農業を主体で栄え、農民の多くは自作地で静かに暮らしていた。歴史的にみれば、遠い昔から天子様を敬う精神が近隣の村々を凌ぐほどに熱かった。彼らは村を挙げて朝廷に寄与するは、ご先祖の伝統を受け継ぎ、栄える村として「十津川郷士」はその存在であるという。

天誅組は京都の異変を知らないで戦っている。しかも兵站を持たない天誅組は、進撃しながら、十津川村に辿り着き、村の長に前侍従 中山忠光(孝明天皇の叔父)の親書を下知し、村の長に次の言葉を告げた。

「我々は世直しで、天子様の叔父様も出張って心痛である。村の長にお力を拝借したい」 天誅組総裁・吉村虎太郎の墨書を見せて慇懃な姿勢で懇願した。

十津川郷士は、村の長の下知で多くの郷士たちが馳せ参じ、総勢40余名が、「天子様に異変が。我々は何事も置きて駆け付けねばご先祖様に申し訳できない」と口々に話し合った。

この談議中、十津川の民たち「郷士」は、先祖伝来の具足・手甲‣脚絆・五段餟の兜を被り、胴丸を着けた戦国を偲ぶ思いで数百名の「郷士」が集まった。

天誅組の大きな誤算は京都の異変を知らないことだった。乱の翌日、京都の同志は天皇の大和行幸に従い、我々と大和に合流の予定であった。しかし、薩摩と会津の探索者、薩摩の高崎左太郎、会津の秋月梯次郎は偽勅と判断した。両藩は御所の堺町御門の長州兵を追い払った結果、8・18の政変となって、長州とその系統全員が京都から追い払われた。世にいう「七卿の都落ち」で数年後、事態は逆転する。

明治維新は歯車が廻って成したと筆者は思う。この天誅組は乱で敗北したが、歯車としては一歯でも明治維新へ向けて廻ったことを後に続く志士たちは感じた事件である。

郷士について延々と述べたが、明治維新の出発点に郷士たちの記述は省くことはできない程に各所・各地で運動がなされ、土佐に限らず、他藩の郷士の事に少しでも触れたことを嬉しく思い、後述は土佐の「郷士」の行動に触れる。

幕末史に名を残す「七卿の都落ち」は、大きな政変だが不思議に長州は、もみ合いや騒動もなく、その系統は大人しく引き揚げた。7人の公家は京都から出た覚えはなく、毛利候を信じて都を後にした三条実美は気丈夫に振る舞い、6名に落胆は見せず、粛々と雨の降る京都を去り「土佐郷士」が護衛役として長州へ従った。

公家たちは、大宰府に落ち着き、三条候の一言で、歴史は大きく回転する。

京恋しさに、お付きの「郷士 土方楠左衛門」に一言「京の見聞を頼む」と聞いた土方は、各方面に運動を興す。この運動こそが、後に龍馬が成し得た「薩摩と長州が同盟」へ向けた、その初歩の工作である。

歴史的に見ても薩摩と長州の両藩は対立していた。薩長同盟の下工作に「郷士の活躍」があり、仕上げた龍馬も「郷士」である。

文久3年8月18日は、京都の政情が一夜で逆転した事件であった。しかし、これ程の政変でありながら、両者の同意であるが如く、騒動もなく薩摩・会津の工作に身軽く引いた長州側の怜悧さは次の計画へ向けた引き金になったかもしれない。

⑨幕末土佐藩の郷士

元治元年6月5日雌伏10か月、土佐の庄屋「白札郷士」数名は他藩の士と交わり密謀中、あの恐ろしい近藤の新選組に襲われた。明治維新への歯車が2つほど廻ったと思える事件は、三条小橋の池田屋で起きた大きな事件で、新選組が初めて手柄をたてて、尊王攘夷の志士たちにその存在が知れた。土佐の「郷士数名」が犠牲になった。その内の2人は池田屋の前を通り呼び止められた。

土佐藩邸に務める藤崎八郎と野老山梧吉郎で、謀議中の池田屋と関係ないが、口語で土佐人と判明、抗戦するも切られ藩邸に於いて絶命、二人とも「郷士」で、19歳の野老山梧吉郎は、女優の栗原小巻氏の縁者で芸西の「郷士」である。

池田屋騒動の傷癒えぬ50日後、政変後密かに工作していた長州系を招集した、長州過激派は7月19日、御所の西南の蛤御門に結集、薩摩・会津・新選組を交えて交戦、蛤御門の戦いは、「禁門の変」という大変な内戦で、家屋の半分が延焼で3日3晩燃えた。この変で土佐の「郷士」たちは討ち死にし、京の六角獄舎に収監中の政治犯数名の中には「土佐の郷士」が含まれ、獄舎と共に燃え果てた。

8・18の政変から池田屋騒動・禁門の変まで一年足らずであるが、関わっていたものは長州系の志士たち、他藩の過激派と、土佐の脱藩者である。

土佐にいる勤王党の志士たちは畿内の政治的活躍に、後れを取ったとして佐川地区から5名が脱藩した。禁門の変を伝え聞いた新居地区の「郷士」2名と庄屋の倅の3名は、名野川越えで水の峠(みずのとう)に差し掛かった。5名のうち1名が足首を痛めて脱藩を諦めて地元の番所に自首するも、捕吏に傷を負わして水の峠迄逃げてきた。若者は「これまで」と囲まれた捕吏の前で自刃して果てた。若干23歳の彼も新居の「郷士」であった。今も水の峠に小さなお堂が建立されている。さらに一人、故郷が潮江地区の「郷士」も脱藩した。

脱藩した先の2人は無難に伊予を抜け目的地の三田尻招賢閣に辿り着く。庄屋の倅は明治を無名で過ごし、もう一人も歴とした新居の「郷士」で、龍馬の海援隊、板垣の民権に、イギリス留学も果たし明治23年の第一回衆議院に自由党で神奈川県から立候補、当選を果たし初代議長になった「男爵中島信行」である。彼たち「郷士」身分から身を興した先輩たちは、身を顧みず回転の渦に巻かれ、辛うじて生きてきた「土佐の郷士」である。

慶応4年正月3日、鳥羽伏見で砲声が唸り、戊辰戦争の先端が開き、土佐藩は翌日から参戦した。

高知城の乾(北西)に建つ致道館を出発した迅衝隊は板垣を総督に、兵卒は全て下士で「庄屋と郷士」で編成し一路讃岐を目差した。この迅衝隊は誠に勇敢な隊士で、何処の戦陣でも負けを知らずであった。

⑩宮地団四郎の日記

戊辰戦争に迅衝隊の総督として従軍した板垣の一兵卒である、香美市土佐山田町植の出身で「郷士」宮地團(団)四郎がある。従軍日記を書き残した一人で日記も出版されている。内容が密で従軍した近所の氏名も詳しい。150年余りの時空を経ても、ご先祖の遺訓を守った故に現在も健在である。明治から今まで多くの旧士族が凋落した。過去の事で知り得ない物が、事は農地改革である。彼の日記にある、戦友の家族を訪ねた時の驚きを記す。日記に記載されているR・M氏のご子孫はご健在であった。広いお屋敷に招かれて遺品の品を見せて下さり感銘を受けた。

1つは、写真の銀板であった。6×8ほどの銀板に透かせば人物が見えた。

2つ目はそれを映した写真である。150年の時空を風化せず持ちこたえた、管理に敬服した。写しに目を凝らし、ラシャだろうか黒の軍服でズボンをはいている。西洋の軍服に統一した迅衝隊がそれに見えて連続で感動を覚えた。

3つ目は、いかにも頑丈な体躯で椅子に腰掛けて、彼も現地調達をしたのか、大事そうに7連発のスペンサー銃を持っている。土佐藩の公務員であった迅衝隊は月何両の手当てを支給され、彼も団四郎と同じ銃砲局で買ったのか、日記に綴られている。

戊辰戦争は、土佐藩を見れば、山内家臣団の上士は胡蝶隊を編成、家老級を総督に押し立てて、松山を征討に。先述した迅衝隊の幹部級は上士であるが、下士官及び兵卒は、庄屋の倅と「郷士」であった。江戸期の平和に慣れた家臣団の堕落に対し「郷士」たちは上士に憧れ日々の訓練を怠らず、長い暮らしの中で子孫に伝える家訓を更に磨き、戊辰戦争では「郷士」側に菊の花が咲いた。

戊辰戦争が終結して明治維新は成る。この維新は、薩摩・長州・土佐・肥前の4藩が押し進めて、日和見的な藩が時の勢いに新政府側で、東軍と交戦して藩を官軍に、その功績で明治新政府に任官の人物がある、激動の賜物であろう。

この稿は「郷士」に光をあてている。彼らの戊辰の役は時の勢いの勝利であった。斃れた仲間は新しい世を見ずに志士としては無念である。攻も防も同じ民族で心の痛み分けが大事で、明治維新を経て近代日本を目差し、文明開化の花を咲かせた「多くの郷士」に先見の明があった、何故あったか更に迫りたい。

癸丑以来は、薩摩の有村俊斎こと海江田信義の言葉である。

『この年から志士として遊説に奔走、藩内及び江戸に出て尊王攘夷を唱えていた。同じ頃、水戸藩にも尊王攘夷を唱える「郷士」たちが現れ、水戸学を修めた藩士たちも開国問題と合わせて共に運動したが、安政の大獄で水戸藩は大老の暗殺を計画した。

薩摩の島津斎彬と水戸斉昭は雄藩とご三家の関係で交流は古く、藩士も水戸学の思想で江戸や京で志士たちも交流。当時、土佐藩江戸屋敷では、水戸学や朝廷に明るい志士が唸る程詰めていた。彼らは薩摩と水戸の志士たちに早くから傾倒、尊王攘夷の思想を再度確認、文久元年「白札郷士」の武市半平太以下8名は盟約文を読み返して「土佐勤王党」を結成。文久元年8月の事であった』

⑪幕末を支えた思想

江戸期の官学は朱子学で、幕府は朱子学を道徳に用いて、旗本・御家人・大名に君臨統治してきた。幕府の下請けの藩主も朱子学で民・百姓に君臨統治。しかし、270年の長い幕藩体制の朱子学は矛盾が多く官学の本質を疑い、本来は尊王攘夷が朱子学であると儒学者や僧侶は謳い、思想家も陽明学・国学を叫び、更にオランダ語の必要性を求む医師も現れ、18世紀は学問の隆盛期であった。

鎌倉の頃、朱子学は中国から入ってきて僧侶が広めた。土佐では戦国時代に春野の吉良氏を訪ねた儒者、南村梅軒が僧侶に教えて土佐に広まった。江戸期に少しの暗黒時代を経て、江戸中期に土佐の南学は復活、国学と足並みを揃え尊王攘夷の思想が沸騰、同時期に浦賀に来たペリー問題で現実的と確認できた。

土佐ではこのような流れがあって、子々孫々に伝え、或いは家訓にした庄屋、豪農、郷士、豪商らは学問を治め、「郷庄の面々」たちの暮らしは豊かでも、格式に於いて家中の臣には負けた。しかし下士から念願の上士になった郷士は沢山いる。この強い精神で志士として説を曲げず、新選組に追われ・池田屋に襲われ、禁門の変や戊辰の役に斃れずに凱旋、過ぎし明治の姿は立派であった。

幕末の癸丑(ペリー来航の年)以来から戊辰戦争までを述べてきた。14年間について知り得る範囲を資料に照らして述べた。志半ばに斃れた「郷士」たちへ詣でて確認をしても、150年の風雪は、彼らの碑をも痛めて半分は全読できなかった。しかし会津の西軍墓地にみた驚きは、隠せない程に行き届いた清掃であった。もう彼らには上士・下士の垣根はなく、「すまんのう」「いんやなんちゃあないよ」と話す間柄があったのか自問自答をした。次に会津の激戦地の母成峠の戦場を見て廻る。

土佐の迅衝隊総督は板垣で、この母成には薩摩の川村純義、伊地知正治次いで板垣退助、谷干城の4名の刻みがあった。150年前の時空を超えて同じ場所に立てた感動は消し難く、綴る今も蘇る思いは消えないし、土佐兵が駆け走ったであろう斜面に立ち、遥かに見る若松市街の距離は同じでも,砲声を轟かせた往時を偲ぶ間もなく暗雲に下山は難儀をしたが「郷士」らの活躍の場を堪能した。

戊辰戦争は慶応4年正月3日勃発、翌月の2月15日堺の日蓮宗 広普山 妙国寺に於いて、土佐兵がフランスに対して切腹を、彼たちは堺の守備隊であったが、言葉が通じず横暴なフランス水兵に発砲。20名の殺傷事件を起こした国際問題で、フランスの申し出を受けて土佐兵を籤引きで20名を決めた、藩重役の処置や、日本の弱い立場を曝け出した往時の新政府に庶民の非難は集中していた。

結論は11名が斃れ、12番目の橋詰愛平は死せずに引き下がり、死を覚悟していた9名は誠になれず無口であった。之まで「郷士」の範疇に含む行動に後れを取った「郷士」は皆無で、この度の切腹中止の気分は残念であった。6番箕浦猪之吉・8番西村左平次両隊長は上士として、藩重役と交渉で合意、この場に及んだ「郷士」は全て、上士に任命の約束が切腹中止で反故に、誠に憤慨である。

⑫堺事件

堺事件で12番目に切腹の予定者であった「郷士」橋詰愛平」は不運であった。

事件に関係した29人を20人にくじ引きで決まった彼たちは、無理強いを装いて軽口でそれぞれと話し、この橋詰は沈黙、家族を思いやる最後の最後を静かに考えていた。やがて6番隊長の箕浦猪之吉・8番隊長の西村左平次・小頭へと順番に呼ばれ、見事に腹を召した11名(この稿で切腹の詳細は延べない)先述の橋詰愛平は12番目に呼ばれ8名に黙礼、拙者は先に参り皆の衆をお待ち申すと、口上を述べて仕切りを背にして着座した。堺の日蓮宗 広普山 妙国寺での出来事である。

新政府日本の政治力は軟弱で非はフランス側に、土佐藩兵は自国を守る権利がある。しかし往時に平和的交渉は無理で、力関係は一目両全であった。この始末は、賠償金を支払い、藩兵を罪人として引き渡す、が含まれていた。しかし、両隊長は直談判の交渉で場を治むと、藩重役に口約束を取り付けた。

6番と8番の隊士は、「足軽・郷士」で編成。彼らの先祖は上士を願うも叶わず、悔しい世を数世代過ごした今、死を以って上士に推薦必ずや願うだろう。と、両隊長に一任していた。そして、「郷士・橋詰愛平は、着座して死の淵へ近寄ろうとしていた。この悲惨と見える切腹は、数ある武士の儀式では吉と捉えている彼は今、儀式に入ろうとした時に、フランス側から中止の命令がでた。

死を以って橋詰家は上士の振舞いができる、が一転反故に、更に仲間には申し訳なく生き恥を晒すことになり、残る8名と合わす顔もない結末であった。

その後、9名は罪人の扱いで土佐から中村へ流刑となり不運な「郷士」であった

戊辰戦争で、板垣の迅衝隊は強力であった。新式の連発銃は威力を発揮、兵站の重要性が功を奏して進軍に勝ち戦を重ねた。往時としては珍しく土佐の隊に、厳しい軍律が備わっていたことは稀有であった。土佐の致道館を出発して高松を接収、大阪に駐屯の時2番隊長の野本平助が軍律を犯して切腹で果てた。

神戸に筆者の友人である小島君がいる。彼の本家筋に「郷士」小島捨蔵(27)がいる。迅衝隊所属で板垣に可愛がられ2番隊長に任命、会津まで転戦、秋に土佐へ凱旋。

翌年の秋、土佐藩からイギリス留学性を4人選抜している。その中に戊辰の役で戦功のあった2番隊長の「郷士・小島捨蔵」がいる。立派な青年であろう。

他の3名も戊辰の役で会津まで転戦して土佐に帰っている。選抜したのは板垣で,戦功を基準に選び、上士と郷士の出身であった。明治3年正月5日、横浜から洋行の途に就く予定で、日本最後として江戸は島原遊郭に遊び、結果加賀の前田家の家臣と衝突したのは3日で、4日に再度復習に出て問題となった。

彼らは、藩に迷惑を及ぼすと考えて、翌5日早暁、東京は芝増上寺横の安養院に於いて切腹して果てた彼も優秀な「郷士」であった。廃藩置県前の土佐は留学に力を注ぎ「郷士」小島の代わりに家臣の馬場辰猪他数名が補選、明治に語学・化学・医学・土木・測量・絵画・思想・芸術の分野で文明開化を支えた。

⑬二人の大石

これまで「郷士」について述べてきた。「郷士」の存在は土木普請、郷-浦、山師等の見回り役として、上士である各奉行職の下役に従事して、絶対の信頼を得た。彼等全てが「郷士」ではなく下士の存在で藩政に顕著な働きがあった。

18世紀、山廻りとして嶺北のお留山を管理していた山奉行の下役として盗木を主に調査管理をしていた春木次郎八繁則がいる。彼は本川地方の生活習慣、祭礼の風習、その他を書き留めた「寺川郷談」を残した。その中に中内県政の頃(1975年~1983年)、地域興しに採用された氷室祭りがそれで、2月の厳寒機に雪をかき集め、氷室に囲い真夏に県庁へ持参した。春木が活躍した時代はお城の殿様に献上したという記録が残っている。先人に頂いた知恵に今を生きている我々は何を残すか?を考えることが大事である。

野市の「郷士」で2人の大石がある。土佐勤王党のナンバ-2の大石弥太郎は戊辰の役に従軍、砲隊で会津に進軍、母成・十六橋・会津若松へと転戦、武功を重ねて秋に凱旋、明治期も人望厚く古勤王党に建て直した大石円である。彼たちの古勤王党は、立志社と対立しても「嶺南香長学舎」を興し(南国市永田)長岡の「郷士」池知退蔵(重利)と教鞭をとり、近隣の青年たちに教育を施し、時に立志社へ意見を通し、政府と対立して国民派を謳った学舎であった。

今一人は大石団蔵、弥太郎の生家北側で育った従兄弟になる。野市で「郷士」の格式を持ち、文武や時流をよむに優れていた。勤王党に活躍の場を求めて「郷士」仲間で、安岡嘉助、那須信吾と共謀し、時の参政吉田東洋を暗殺した後、脱藩して行方を晦ました。

脱藩後、薩摩の奈良原喜八郎の保護を受けて養子となり、高見弥市と改名して薩摩藩士に召し抱えられる。人物として優秀であり薩摩藩第一次英国留学生に選ばれ、3年後の慶応3年に帰国。明治期は造士館で数学の教師を務めた。

薩摩藩の不思議さは長州もそうであるが、攘夷を唱えるも、裏では外国に留学性を送り、未来に備える素早さが両藩は愉快で、知らずに死を賭して戦った同志に対して説明ができない。しかし、絶対の権力で君臨統治した長い歴史がある故に、意見や文句は出ずに、権力の一例を見る思いである。

筆者の生まれは旧「土佐国香我美郡岩村郷京田村になる。往時は10ケ村で名本は10名、大庄屋の中山氏(幕末)が郷を差配していた。文政年間で岩村に居住の「郷士」記録には、領地と役知高の合計が記録されている。その「郷士」の氏・通称名・諱も記録され、その氏の直系ご子孫かは不明だが、同じ苗字は数件ある。また珍しい苗字「郷士・藤友」を岩次村に確認、今は不在で驚いた。

小学校に通う道すがら神通寺を通った。成人して岡田屋敷は此処だと教えられ、以蔵の岡田と理解、その面積は1反5畝位か「郷士」の佇まいを空想、地区の墓地にご先祖の墓碑が「郷士」と解るは姓・通称・諱を刻み、一文字を襲名、岡田は「宜」で「郷士」の風格であろう。最後に、地元三里については、次の機会に書かせて頂きたくて、この稿に触れなかったことをお詫びしたい。

written by 今久保