幕末の政治情勢

十九世紀の初頭は江戸の後期で、文化・文政(1804-1829)時代は元禄に次ぐ文化が華やいだ時代であったが,綱紀弛み風俗頻廃、遊楽を事とした江戸市民と町人芸術は爛熟に達し、小説・戯曲・俳諧・浮世絵・西洋画・文人画などの作家を輩出、また地方文化も盛んで平和な時代で、その時期に大事件が起きた。

文政七年(1824)五月水戸藩の「大津浜」(北茨城市)に異人が上陸をしたその件に触れよう。

英国は産業革命(1760)を興し、その五十有余年後には国力が富み海洋国として蒸気船で捕鯨の漁業が盛んであった。

当時は化石燃料や電気の無い時代で、蝋燭や機械の潤滑油・グリス等は鯨油で賄っていたが、水揚げの良い遠洋漁業へと次第に漁域を広げていった。

余談として独立後四十年のアメリカも鯨油を求め、太平洋に船団を繰り出したその一隻の捕鯨船は、無人島の漂流民数名を発見、救助して本国へ連れて帰った一人の少年が後の中浜万次郎で、彼はアメリカで高等教育を受け嘉永四年(1851)ハワイ~上海航路の定期便に乗って沖縄へ帰ってきた。

それはペリ-来航の二年前であって、一人の少年の運命はこの十年間で大きく変わった。沖縄から薩摩へ送られ厳しい調べがあって土佐に帰ったのは一年後であった。

十二名の漁師が艀で上陸をした。この報は早馬で水戸の城下と、江戸の幕閣へ伝えられ、浦役人はその対応策を仰いだ。

水戸藩主「斉脩」候は儒学者の会沢正志斎に全権を委任。

この会沢は藤田幽谷(東湖の父)の愛弟子で、江戸の四斎(林述斎・佐藤一斎・安積昆斎)と謳われたその一人であり、異人と談判を重ねた先生は取り調べの報告と国体の護持の件も論文に纏めて藩主に上呈。

異人を取り調べた先生は、近海の捕鯨から遠洋漁業を始めたイギリス人で、日本の近海で操業中食料や水が欠乏、更に脚気を病みその窮状を訴える云々と報告。

しかし幕府や藩内の一部では、漁師に成りすました偵察ではないかと見る意見もあったが彼らを説得し、異人たちには日本の立場を説き,充分の食料と水を与えて本船へ艀で帰らした。

二百年余の鎖国を守り、江戸幕府の安泰を保ってきたが、十九世紀に入れば日本の近海に異国船が出没し始め、幕府は各藩に警戒の布令を出したその時期に異人達が上陸をした、そこは江戸へ二日の距離である水戸藩領であったので藩主「斉脩」候は、今後の対策として会沢先生に全てを委ねた。

往昔より中国の儒教を学問として受け入れ、江戸期は朱子学を官学と定め諸藩は儒者を抱え,正志斎先生もその一人で水戸の「彰考館」に伝わる膨大な中国の資料に驚き,政論書二巻の「新論」を藩主に上呈。新論は次号で述べる。

ぺリ-来航の余波

文政七年五月大津浜に異人が上陸、江戸幕府と水戸藩に強烈な衝撃を与えたこの事件は、幕府通詞(英・米・蘭の通訳・清国語は通使)と会沢正志斎(彰考館総裁・弘道館総教・儒学者)が直面した諸問題を取り扱って解決となったが、今後の事を深く考えた藩主斉脩は、晩年の藤田幽谷・豊田天功・会沢正志斎を弘道館に呼び、藩主の上意を伝えた。

その結果水戸の両田(藤田・豊田)は壮年期の正志斎に後事を託したと、水戸史学会(「十年間入会」)は今に伝えている。

明けて八年(1825)四十三歳の正志斎先生は「新論」二巻を著して藩主へ上呈、この政論書二巻には、明の遺臣「朱舜水」が二代藩主光圀侯へ伝えた、中国「明」を襲った異民族(ツング-ス・女真人とも)の事にも触れている。

それは北方の狩猟民族の圧迫を受けて、漢民族の王朝は南へ追いやられ1644年明国は滅亡した。

此処に清国(満州人)が生まれ、異民族に追われた朱舜水は日本へ亡命、万治二年(1659)光圀侯に招かれて帰化人として江戸藩邸で儒を講義する傍ら、光圀侯の師匠として江戸で、その後は水戸で暮らした。

この様に異民族によって国を奪われ取り返す、それが中国の歴史であって、大日本史編纂中の光圀侯は師匠からこれらの話しを聞いており、爾来編纂所である彰考館に思想として残った。

後年水戸に移築された彰考館にその思想は引き継がれ、正志斎先生は総裁としてそれを受け継いでいる。

この様に「新論」には異民族の問題が多く含まれているが、当時の知識人に強烈な印象を与えたこの「新論」を一言で要約すれば「人心の統一」と「尊王攘夷」であった。

この事については別項で記す。

水戸藩は異民族を特に警戒、何れの藩よりも強く持っていた、そんな気分が高まっていた嘉永六年(1853)六月世は平和と思っていた時、相模の国へ突如としてペリ―が来航した。

浦賀の役人や民衆らは煙を吐く船を初めて見て驚いたが水戸の沖合いで異国船が捕鯨を、それを漁師たちは早くから見て知っていたが、鎖国時代で仲間にも他言はしなかった。

この問題は幕府よりも水戸藩が強烈な反応を示した。

彰考館には異民族を警戒する思想があって、上陸問題の覚めやらぬ二十九年後に、鎖国を承知で開国を迫るペリ-艦隊に猛烈な反対であった。

欧米の産業界は、発明やその他を公開して発展をしてきた。

意見の対立が出た場合は討論で、正しい答えでどんどん進み産業界は発展。

更に貿易を求めて海外へ出向き米英の捕鯨や、米の太平洋航路で緊急の場合は寄港地が必要で開国を迫った。

しかし、「新論」の骨子である「尊王攘夷」の思想が藩内にあって、藩主「斉昭」侯は一門・連枝・家老以下藩士に「人心の統一」の再確認をして、水戸藩の士気と「千波湖」の水は俄かに煮え滾っていた。

弥太郎と半平太

十八世紀の後半、土佐藩は幡多郷士を募集、その選に受かった大石家は野市郷士として栄え、文政十二年弥太郎が出生、一族に団蔵がいるが訳有りで薩摩に走り、同志数名と英国に留学、高見弥一と名乗って同国にその碑がある。

安政五年(1858)幕府は勅許を得ずに修好通商条約を五ヶ国(米・英・露・仏・蘭)と締結。この問題と将軍継嗣問題が重なって、反対派の公卿・大名・志士等を罰したが、幕末においては公家の力が復活、特に薩・長・土の後ろ盾の近衛・鷹司・三条各家の発言が強かったが、思想家の志士たちは投獄されて斬首、この「安政の大獄」に山内容堂侯は隠居、品川の鮫洲に永蟄居させられた。

この大きな問題が朝廷と幕府にあって、時の大老井伊直弼は七年三月三日(万延元年)桜田門外において、雪の降る中で暗殺された。

後任の安藤信正も襲撃を受けて負傷、(坂下門外ノ変)この時代は尊王攘夷が絶対の正義であって、曖昧な公武合体を手緩いとする輩(長州の久坂玄瑞)もいた。大石弥太郎は藩命で江戸に遊学、尊王の志士らと交わり、水戸の岩間金平や薩摩の樺山三円らと密接な関係が続き、土佐の思想に通じる陽明学にも触れた彼らの熱い思いを、事あるごとに聴かされていた。

土佐藩の上士と下士の身分差は歴然としたものであったが、この身分差は尊王の思いとは同一ではなく、寧ろ下士たちの思いが強く、吹井の「白札」(上士と下士の中間)の郷士、武市半平太は諸藩の状態を知る第一人者で、親藩・譜代藩・外様藩の持つ幕府への思いと、尊王攘夷への思いのバランスを把握しており、開国をした今の流れでは攻防合い半ばと判断、このニ・三年は水墨画・和歌をこよなく愛していたが、天子を敬う心の強気は藩主をも上回っていたといわれ、上士数名にもその名は知られ、城下の人望は厚かった。

武市半平太小楯は文久元年(1861)当時、新町田淵(菜園場)で剣術の道場を開き、鏡新明智流の教えを郷士や庄屋達に伝授していた。

その年の春江戸の大石弥太郎から誘いの書簡がとどいた。

彼は野市の郷士で半平太と生まれも同じく、郷士仲間として以前からの交友で、藩政改革を話題にして語った仲で親しかった。

先に述べた大獄で隠居した元十五代藩主山内豊信(しげ)侯は容堂と号し、品川の鮫洲に蟄居謹慎中で、手勢も薄く身の危険が心配である、それについて藩重臣は策を講ぜず、この際我々の下士仲間で天下の公論として政の話をしたいと、その旨の書簡であり、ご隠居の身を気遣う、その想いが充分に読み取れる。

新町田淵の道場に友人・知人を呼び、大殿の身について充分の議を開く、彼らは下士であるが、郭中の士に劣らぬ気風を持った、後の同志たちであった。

同志百九十二名

藩命で江戸にいる大石弥太郎は、他藩の有力な尊王攘夷派たちと情報の真儀を確認、また現地に赴きその言質を採る、所謂実証的な行動を怠らず、土佐藩でも癸丑年以来(ペリ-来航の年)の志士歴があり、人望の厚い郷士でもあった。

ここで他藩の「癸丑以来」の志士、について記す。

薩摩では有村三兄弟、樺山三円、水戸の岩間金平・高橋多一郎、若狭小浜の梅田雲浜、京都の儒学者「頼三樹三郎」等で一流の人物であった。

特に岩間金平と樺山三円は大石弥太郎に強烈な思想をあたえた。彼ら志士たちは尊王攘夷を唱えた草創期の人物で、数名を残しその他は病死や「安政の大獄」で刑死をした有力な志士たちであった。

万延元年三月半平太の祖母は死亡、同年七月九州へ遊歴、初め中国に渡りその後は西南諸藩の志士たちと交遊を重ね、年末に宿毛を経て高知に帰った。

岡田以蔵・久松喜代馬・妻「富」の一族島村外内たちが随行をしている。

明けて文久元年四月、弥太郎の書簡を受けて発奮興起、半平太は小笠原保馬(義理の甥)を伴って高知を発ち、六月江戸で弥太郎と再会をして国事を語り、水戸や薩摩の志士たちを紹介され、更に長州の桂小五郎・久坂玄瑞・高杉晋作らとも会談を繰り返し、他藩に遅れた土佐藩を喚起する士気は充分に備わった。

この様に他藩の志士と深く交わって得たものは行動は素早くで、南学や陽明学の教えに半平太は奮い立ち、ここに野市の郷士大石弥太郎の努力が実った。

彼は国文の素養があり実直慷慨の士で、土佐勤王党の盟約書は彼の起草で始まり、その精神は維新後「古勤王党」を以って明治政府や自由民権の旧同志らと意見を違わせた最古参の人物であった。(大石円翁の頌徳碑は香南市野市に建つ)文久元年八月江戸に於いて「土佐勤王党」は結成された。

盟主武市半平太・大石弥太郎・島村衛吉・間崎哲馬・柳井健次・池内蔵太・河野満寿弥・小笠原保馬たち八名が血判を押した、この結社は日本最初の政党であった。

同年九月三日島村・河野、柳井を同伴、江戸を後にした半平太は、江戸残留組と互いに気脈を通じて藩論を動かすことを固く誓って、起草された盟約書を土佐へ持ち帰って広く「草莽の士」に呼びかけた。

そして文久三年二月までに百九十二名の連署血判を得ており、土佐で血判した「坂本龍馬」は九番目であった。

薩摩・長州・水戸に尊王攘夷の精神は大きく離されていた土佐は、この盟約書に「攘ふ」の文言を入れて半平太の思想を汲み、容堂候の冤罪を晴らさんとする忠誠心も強く反映している。

この盟約書は長文であり序文を以下に記す。

堂々たる神州「戎荻」の辱しめをうけ、古より伝はれる大和魂も今は既に絶えなんと、帝は深く嘆き玉う。

しかれども久しく治れる御代の因循委惰といふ俗に習ひて、独りも此心を振ひ挙げて、皇国の禍を攘ふ人なし。かしこくも我が老公(容堂)夙に此事を憂ひ玉ひて、有司の人々に言ひ争ひ玉へども、却てその為めに罪を得玉ひぬ。と続き二百五十有余の残る文字は省くが、文久元(辛酉)年八月 武市半平太小楯と記す。

省いた文中にある「我が老公の御志を継ぎ」とあるのは、容堂がかつて姻戚の三条実万に宛てた密旨のなかに「豊信は、一朝事有り錦旗翻るの日は列藩親藩を問わず、其の不臣の者これを討ち、国力を尽して王事に勤めん。

是れ平常の赤心、万々御疑念なき事」と誓約していることを指すものと、「維新土佐勤王史」は「大脇與之進手記」より抄出として推定とある。

跋扈する同志

跋扈、この文言は歴史小説においてよく使われている。

幕末の一時期の文久二年から三年の夏に掛けて京都に多い。

この跋扈は現代用語で解釈した場合は、勝手気ままに振舞う、のさばりはびこる等の意味である。(広辞苑第六版)別に跳梁跋扈といえば、悪人などが好き勝手に振舞うという解釈であるが、この稿の跋扈は武力・権力などの勢力がともなっている事を指して云う。

勤王党は時勢に乗って、短期間で百九十二名の血判者が集まった。

その出身階層別の分析は未定稿であるが、百二十七名は出身階層別分類表に載っている。

それによれば上士が二名いる、これは特筆に価する、下士が百五名・庄屋が十四名・地下浪人は二名・百姓・医師・職人・僧侶各一名である。

これらの階層別は、二年後発足の長州奇兵隊も各階層から成り立っていることを思えば土佐も長州も「自由平均の理」の心理を持て余していたと思えなくもない。

これら血盟者とは別に、勤王の精神を発揮した連中も見逃せないほど大勢いた。

幕末の激動において政党を以って事にあたるこれが跋扈であるが、この時代は既に勤王と佐幕の二局面が対立、その前段である大獄が尾を引き、土佐勤王党が誕生したのである。(大獄で容堂公が隠居謹慎・井口事件も心的関連あり)明けて文久二年の早春、吉村虎太郎が脱藩するも寺田屋騒動の余波で捕らえられ、高知へ護送された。

次いで坂本龍馬が沢村を伴って脱藩。

この様に藩を脱して京・その他で情報を探るにも予定が狂った坂本龍馬は江戸へ、方や二度目の脱藩で虎太郎は,京都で尊王攘夷派と合流して次なる行動の準備をしていた。

跋扈を実行したのは暗殺であって土佐では岡田以蔵、肥後の河上彦(げん)斎・薩摩の田中新兵衛・中村半次郎(後の桐野利秋)達であった。

彼らの暗殺で京の大路・小路に血飛沫が舞い上がり、幕府は京都所司代(旗本の子弟で見回り組み)と、新設の京都守護職に治安を委ね、配下は泣く子も黙る「新撰組」であった。

文久二年の年は勤王党が最も跋扈した年であった。

盟主半平太は京にあり、山内家と親戚の三条家に出入り、朝廷は将軍に攘夷督促の勅使を送る、その護衛役として一行に加わった。

正使は「三条実美」、副使に「姉小路公知」、その雑掌として柳川左門(半平太)を名乗り、大名以外は登城できない江戸城へ、この任を終えた半平太は上士である留守居組へ栄達。勤王党の絶頂期の年であった。

文久三年の春に跋扈する勤王党の前に現れる隊士は、京都守護職、松平容保(かたもり)配下の新撰組で、彼らは四~五人で一組を成し相手を取り囲む戦法で、この組が初手柄を立てたのは三条小橋西の「旅宿池田屋」を襲撃、尊攘派20余名を斬殺・捕縛した大事件であった。

土佐人も数名が犠牲となっている。

天誅組の乱

土佐藩の資料としては旧山内家史編纂所において編まれ、今日まで良い状態で残っている。

それ故に畿内で起きた全てがつぶさに記録がされている。

文久二年(1862)の秋会津藩主「松平容保」は、京都守護職として京の治安の為に1000名の藩士を従え更に、新撰組を配下にして尊擾派たちに打撃を与えたが、この職に就き五年余で明治を迎え、戊辰戦争で哀れな結果となっている。

天誅組の主要人物は「中山忠光」(明治天皇の叔父)侍従を擁し、総裁は三河の刈谷藩士松本奎堂(譜代大名水野の家臣)・備前の藤本鉄石・土佐の吉村虎太郎ら三名がその任につき、総勢一千名を越えていた。

土佐人が数名いたが二名が生き残り、明治を生きたのは、海援隊の伊吹周吉こと、後の男爵「石田英吉」(安田町中山)のみであって、いかに過酷な乱であったかと伝わっている。

ここで天皇の行幸の手順を述べよう。

公家に勤王派と佐幕派があった、その実態は三条実美が握っており、侍従長に行幸の詳細を告げ、天子の密勅の布令が明日(八月十八日)諸大名に行渡る。

時の帝が行幸をすれば幕府・譜代・親藩・外様の序列はともかく一臣下として供奉しなければならない。

以上の計画が京の同志と結ばれて、十七日天誅組は大和の五条代官「鈴木源内」を殺害、当地の天朝直轄を宣言、彼らは大和行幸の露払いの気概であった。

怜悧な長州人と堅物な薩摩人、京の人気に大差を付けられた薩州は、巻き返しのために策を考えその相手と行幸の勅を阻止する、それが松平容保であった。

薩摩の戦略は「青蓮院の宮」と連携をとり、明日(十八日)出るそれは偽勅であるとして朝廷の九箇所の御門を一斉に封鎖した。

京都御所の政変を遥か南で知る由もなく、天誅組は官の兵として、京の同志と合体を信じて奮戦をしていた。

文久三年八月十八日無残の仕打ちを受けた長州兵や長州系の志士たちは七卿をお守りして、七条の妙法院まで引き下がって体制を整えて、初秋の雨の中を出立、長州を目指した。

是が世に言うところの「七卿の都落ち」である。

十八日の昼過ぎに政変を知った天誅組みは、幕府の追討兵(津の藤堂と桑名の松平定敬:容保の弟)に追われ支援も無く、敗走を繰り返すばかりであった。

何れの戦でも兵站が思うに成らぬ方が大方において負け戦となっている。

五年後に起こる戊辰戦争や、明治十年の西南戦争もまた然りである。

一時同志として参戦していた十津川村の郷士達には、壬申の乱(672年)以来の朝廷における「変」に出兵を惜しまずの伝統があり、この度も「行幸」を信じて、天誅組みに加担をしてきた。

しかし虎太郎からの丁重な断りを聞き、郷士たち数百名は立ち去ったのである。(十津川郷の人達はほとんどが郷士である。)土佐兵の池内蔵太・伊吹周吉その他は、天誅組盟主中山忠光(大納言忠能の子)を守って、大阪の長州藩邸へ逃れ、更に長州へ潜伏をしていたが、その反対派によって翌年の元治元年、長州の防府で暗殺された。

享年十九歳の若者を盟主とした天誅組の乱であった。

後年この乱は結果から見れば暴挙と見る、しかしこの乱があって大きく歴史が動いた、その観点から見れば寧ろ維新(五年後)のさきがけである。

彼たちが終焉を迎えた地、東吉野村鷲家口の民衆が今日まで彼らを哀れ悲しみ、その義士たちの菩提寺「宝泉寺」において年忌・回忌・遠忌などを執り行ってきた。

また墓地も整備され、終焉地には詩も刻まれている。「吉野山風に乱るるもみじ葉は我が打つ太刀の血けむりと見よ」これは吉村虎太郎の辞世の詩である。

2013年、天誅組百五十年際が関係市町村で行われ、東吉野村へは大勢の参列者が集まった。

津野町では郷土の先輩として、これまでも回忌の参列者を参加させており(「当時は東津野村」)この度の顕彰会発足にも加盟をしている。

政変と禁門の変

日本が大きく変わっていく癸丑以来から明治維新までの十五年余の歴史の中で、最も大きな影響を与えた政変は文久三年八・一八の政変であった。

この政変は公家衆や長州藩に大打撃を与えたが、心的は別として一人の犠牲者も出なかったのは、幕末史の不思議の一つで、京都御所で薩摩・会津連合で起こした政変で,七卿の都落ちといわれ土佐勤王党の数名が長州、更に大宰府まで随従をしている。

一方土佐では党員の弾圧が始まり武市半平太・岡田以蔵・村田忠三郎が捕縛され、他の志士たちは身を顧みず三々五々土佐を脱藩していった。

この年の二月勤王党員で旧片地村舟谷鍛冶屋、菊平の倅小松小太郎(1843~1863)は土佐を脱藩、攘夷論の激しい最中、同志北添佶摩(1833~1864池田屋に斃る)能瀬達太郎(1843~1864山崎天王山に斃る)らと五月越前敦賀より函館へ向かい、松前藩の意見を参考として蝦夷地の視察をしている。

しかし惜しいかな小太郎は船内で病死、六月七日函館で埋葬されたと伝わっている。

この政変は現実主義の薩摩藩としては文化的であった。

和歌の詠める者として高崎正風を、会津藩はお国訛り(会津弁)のない江戸言葉が話せる秋月梯二郎が選ばれた。

二人は和歌を通して京の粟田口「天台宗門跡」青蓮院の「青連院の宮」と接触をする。

彼はこの年還俗をして「中川宮」(賀陽宮)朝彦親王と称し尊王攘夷派と対立。

宮は朝廷で同月十三日の勅は偽勅であると薩摩へ報告、十八日の早朝に薩・会両藩は御所の九ヶ所の御門を一斉に閉じたのであった。

京都粟田口の青蓮院は数回ほど拝観に訪れた。

土佐勤王党の同志三名(間崎・平井・弘瀬)は宮様に令旨を請い、藩政改革と称して土佐の隠居豊資公へ、その件で三名は文久三年の六月、山田町の獄で処刑となり党員では最初の犠牲者であった。

その三名を院で偲べば感慨も深く深閑とした境内に立てば、五月は豪快な霧島つつじが庭園いっぱいに咲き乱れ、正門脇の楠の大木(樹齢500年か)の新緑も眩しかったが、郷土の先輩たち三氏も建造物を拝観し庭園・楠の大木をどんな思いで観てたのか、何時行っても興味の尽きない青蓮院であった。

二百数十余名の党員や支援者も、病死や事故、八・一八の政変・天誅組の乱・禁門の変などが度重なり、慶応を迎えた頃には勤王党の勢力は弱まっていたが、それでも党員たちは他藩の志士たちと志を異とせずに耐え忍んでいたと伝わる。

帯屋町南会所の獄に収監された盟主半平太は二ヵ年が過ぎた。

参政吉田東洋の暗殺教唆の容疑で長い裁きをうけた。

下士勤王党の弾圧は厳しく拷問は厭わず獄死数名を数えたが、遂に藩庁は慶応元年閏五月十一日、南会所の獄で武市半平太に切腹を申しつけ、同日岡田以蔵も山田町の獄で彼は斬首であった。

古勤王党の活躍

文久元年八月、江戸に於いて結党をした土佐勤王党であったが、藩庁の厳しい弾圧や政変その他に於いて犠牲となった党員たちは多く、明治を迎えた頃には勤王党としての機能は失せていたが、ある一人の志士は党の精神を以って、旧同志達の顕彰に身命をかけていた。

それは坂本龍馬の銅像であり,慎太郎の銅像であって、犠牲者の多い土佐人を顕彰し終えた翁は九十六歳の長寿であった。

翁の名は浜田辰也で、佐川の筆頭家老深尾家の家臣であったが、藩内の党員活動で身の危険を察知して同志五名と脱藩をしていった、その後明治になって運よく栄達。

彼が後の宮内大臣「伯爵田中光顕」である。

勤王党のナンバ-2として君臨していた大石弥太郎がある。

彼のことは第4回に述べたが、土佐人で最も早くから尊王攘夷の思想を抱き、他藩の志士たちと意見の交換で交わりも早く、土佐に勤王党を立ち上げた人物であった。

彼は野市の郷士で一族に大石団蔵(吉田東洋暗殺の一人、薩摩に入り高見弥一の名でイギリス留学をした)があり、文政12年(1829年)で半平太と同じ年で、安政の条約後藩命で江戸に上り砲術の経験豊かな志士で、戊辰戦争には砲隊の軍監として会津まで従軍をしている。

土佐の郷士がそうであるように彼も国文の素養が高く、土佐勤王党の盟約書は彼の起草で始まり、その精神は維新後「古勤王党」(国民派)を以って明冶新政府や自由民権運動の壮士たちと意見を違わせたが、彼らとは元は同じ勤王党の同志であった。

しかし土佐人の「いごっそう」であろうか勤王の精神の中で日々を送り、旧同志の遺児たちに学問を勧めていたともいわれている。

南国市永田の、ある水田の傍らに建つ碑には「嶺南香長学舎跡」とある。

この私学校が当時流行の私学で「土佐の立志社」「田原坂東の植木学校」「鹿児島の私学校」などが最も有名であった。

この香長学舎の教授には大石円(旧名弥太郎)長岡の池知重利(旧同志退蔵)が努め、徳島からも応援が駆けつけたと聞いている。

この様に旧の庄屋とか郷士たちが私材を持って子弟を感化する、それは国の言語を統一することが文明開化の基礎として、明治の人たちは手作りで言葉を作ったともいわれている。

長岡の郷士池知退蔵さんが晩年に建てた家屋が山田に移築されている。

JR山田駅東にある「百年舎」がそうで四方棟の大きな屋根が見える。

百三十年以上の歴史を持った普請であり、豊かな郷士の佇まいが残っている稀有な建造物でもある。

弾圧と党員

勤王党の志士たちは禁門の変に於いて余儀なく敗走、京の南西山崎天王山まで引き返し、その地で自刃した士もまた多く、顧みれば一昨年八月満の思いを抱き、尊王攘夷を掲げて結党した土佐勤王党も、天誅組の乱・池田屋騒動・そして禁門の変で、稀有にして得た若き志士たちを次々と失って行った。

昨年の政変後、藩庁は盟主武市半平太と村田忠三郎、岡田以蔵を牢獄に収監。藩外の志士達にも帰藩命令が下り、その収監を知った志士たちはその命令を無視、全員が脱藩者となって各方面へ四散、党員への弾圧であった。

幕末に政党を組み藩庁へ意見を述べる、その様な例は勤王党を除いて、他藩では皆無、その点土佐は進んでいたが、弾圧もまた薩・長より更に進んでいた。

党員が三名連署で藩主容堂公の伯父であり隠居豊資公に、藩政改革を求める令旨(りょうじ)を提出、これは間崎哲馬・弘瀬健太・平井収二郎が青蓮院の宮(後中川宮)より授かった令旨であって、後で隠居容堂公は『藩主豊範に無断で陰謀を企てた』といって、政変の二ヶ月前に3人に切腹を命じた。

これを「青蓮院の令旨事件」と呼び最初の弾圧であった。

武市先生の釈放と、藩政改革を謳い、野根山に屯集した二十三士の斬首にも党員への見せしめが多分にあって、藩内の党員たちが脱藩をしていった。

彼らは周防(「防府」)の三田尻招賢閣へ二日余りを掛けて辿り着き、迎える長州側は厚い持て成しであったと、後の宮内大臣「田中光顕」伯は回顧録を残してある。

余談として此の時の脱藩者は五人、内訳は浜田辰也・那須盛馬・井原応輔・池大六・橋本鉄猪たちであった。

其の一人の井原は他の四人の見張り役として深尾家より言いつけられていた。

お互いが家老の家来で顔見知りの仲間であったが、誰となく誘い合って三田尻へ奔ったと謂われており、その五人が集合した「赤土峠」には明治期栄達した「田中伯爵」の碑と詩がある。

「赤土峠集合の地」とあり脱藩当時の緊迫したなかで待ち合わせに似合う、今でも寂しい峠でその碑には「まごころの赤土坂にまちあわせ生きて帰らぬ誓いなしてき」と詠んである。

佐川にある青山文庫は田中伯(浜田辰也)が収集した書籍によると聞くし、また坂本龍馬の銅像にも人的な面で協力を惜しまなかった。

慶応元年閏五月十一日、藩庁は盟主武市先生に切腹を命じた。

それは先走る志士三名が、文久二年四月八日の小雨降る夜、侍講を終えて家路の途中をだった藩の執政吉田元吉(東洋)を襲って暗殺。武市の罪名はその教唆とした。

武市先生は一藩勤王を持論としていたが、時代の歯車はかみ合わず二年後にその理想は実現となった。

武市先生が説いた理想は同志たちが受け継ぎ、犬猿の中であった薩・長の関係が秋から柔らぎ、土方・中岡がその下工作を準備中、歴史は急に動き始めていた。

四散した志士たち

京都の政変後七卿は長州へ、これが所謂七卿の都落ちであり、勤王党の志士たちはそれに付き従い一年が過ぎた。

この間に七卿は一人が生野の乱に担がれて離別し、一人は病死し、五人となっていた。

この一年における流れを以下へ記す。

長州藩は禁門の変の責任者として、家老たち数名を差し出して恭順の意を表す。これは長州人の怜悧な所で後々まで強力な藩を維持できた所以であり、稀有な人材が随所に現れて危機を救う、その様な風聞も述べてある。

慶応元年中秋の候「往還の風聞」とは薩摩・長州・土佐・会津を指しているが
その四藩の風聞は畿内でほぼ一致、幕末の庶民たちは政治をよく見ている。

薩摩については、政争の挽回に会津藩と二度も連携して、京都から長州及び長州系を追い出した。

その長州藩は絵堂・大田の内戦を乗り越えて尊王攘夷を明確に唱え、それに呼応する脱藩浪士が各地より馳せ参じた。

この時期まで犬猿の仲である薩・長は、文久二年(1862)ほぼ同じ頃数名をイギリスへ留学させた。

表で攘夷を唱え裏では異国人と握手、不思議がここにある。

長州は一貫して尊王攘夷を貫き、文久三年(1863)五月十日期日の攘夷戦を幕府は不履行、その代行戦で米・英・仏・蘭の威力を知った。

そのことが長州藩の進歩に繋がると、畿内と芸州の庶民の話しがほぼ一致している。

続いて八・一八の政変、元治元年(1864)の池田屋騒動の失望と禁門の変で敗走、幾多の激変も粘り強く耐える長州藩を慕う庶民が多いと土方は綴っているが。

土佐をどの様に見ていたのか。

土佐藩は日和見と手厳しい、結社である勤王党はその主旨にある尊王攘夷に於いて、思想が一致する他藩の志士と行を共にしてその殆どが屍となった。

その辺りの精神と行動を高く評価しており、また「身を顧みず一心を捧げた勤王党」は、「私心の無い誠を天下に示した熱き御仁」とその様に見ている。

最後に会津藩について、お気の毒と庶民は異口同音、しかし何々云々の理由も付いており、私見を入れながら列記する。

徳川幕府は親藩・譜代藩・御三家・御三卿で成立、それは幕府が絶対の権力を維持の場合であって、癸丑の年(1853)以来の混迷な世で攘夷・開国の両論に翻弄され、京の治安を守るに於いて家訓を重んじた会津の松平容保公は我が藩の今後を吉・凶何れも不問わず平然と京都守護職を拝命して、その流れで薩摩と組み会津藩の面目を果たしている。

慶応元年になって今後を見据えた薩摩藩は慎重になっていた。

その様な時に土方は京都情報を携えて中岡その他に下関で会って意見を交換、その結果この時期で薩・長が同じ方向を向くこと事態、とてもそれは無理と判断をしていた。

written by 今久保