はじめに

海援隊長、坂本龍馬

日本の歴史人物の中で、その功績と人気においてはナンバーワンであろう。彼の活動は実質4年であったが、その短い期間で果した役割に多くの人は感動を覚えてやまない。

癸丑(1853年)以来15年、日本は革命を成し遂げ近代化へ向かう、その革命の最先端で、龍馬は東奔西走、昼夜休みなく平和を願い、日本の夜明けを同志慎太郎と語り合っていた、その二人を付け狙う一団が暗躍をする。

彼の同志慎太郎と最後になった近江屋、そこは明日の日本の構想を練る場所として潜伏をしていた。しかし夜襲を受けて二人は、作りかけた日本を見ずに斃れた。日本の礎となって150年を迎えるにあたり書き残す。

土佐藩の重役、後藤象二郎によって、藩お抱えの海援隊となり、その隊長となっていた龍馬は、海軍・貿易・運輸・商社などを手がける。一方では京都の情報を受けて、隊士へ指示を出す。

第1回 坂本龍馬

幕末文久二年(1862)京都は尊皇攘夷を唱え天誅や暗殺の輩がいた。土佐でも不穏な空気が渦巻く同年三月、青年が友を誘って土佐を脱藩した。思いはずれて江戸へ行く。京都に留まれば後の彼はない、ここが彼の運命だろう。江戸は剣術の修行で二度行き数年を過ごした。脱藩者は無名の坂本龍馬である。

余談を添える。当時の江戸三大道場は、「士学館、鏡新明智流桃井春蔵」「玄武館、北辰一刀流千葉周作」「練兵館、神道無念流斉藤弥九朗」を指し、「位は桃井、技は千葉、力は斉藤」という評が明治以降に広まったという。

千葉周作の弟、定吉も道場を開き門人であった龍馬は行き場を失って師匠に事の顛末を話した。子息の重太朗とも再会を果たし急遽師匠の知人を尋ねた。その知人は当時海軍の第一級の人物、勝(麟太郎)海舟あった(技術は中浜万次郎)。

後日その縁で神戸海軍操練所に同郷の望月亀弥太と入所、勝塾の塾頭として、技術は無論規律その他で範となるも、海軍操練所は急遽閉鎖した。その原因は京都三条小橋西袂の旅籠、池田屋に起こった、尊王浪士と新撰組の乱闘事件に操練所の熟生である望月亀弥太が関係、もう一人は岩目地の庄屋、北添佶磨が加担していたからである。

この池田屋騒動事件で被害にあった土佐人は藤崎八郎・野老山梧吉郎他。芸西の野老山梧吉郎は女優の栗原小巻様の縁者であると聞く。他藩で有名な肥後の宮部鼎蔵、長州では吉田稔麿がいる。彼は久坂玄瑞・高杉晋作・入江九一とともに松陰門下の四天王と称されて、若干23歳の逸材であった。

閉鎖となって行き場のない龍馬たちは勝の根回しで塾生たちと、長崎で亀山社中を設立、薩摩の支援で、西南の雄藩へ、銃器・蒸気船その他を周旋、日本初の商社が誕生、やがて英国人と初めての取引へと世界観を広め進むのである。

安政の開国後門閥家の世襲制は、社会の変化に対応できず、能力のある人物を求めた時代で就中、蒸気船を操船する才能が当時は第一級の技術であった。

当時の社会は尊皇攘夷で、京都を走り回る輩が目に付くが、社中の彼らは同じ目的を掲げた集団でも、リーダーの坂本龍馬は世界観の能力を持って人との出会いを的確に捉え、その縁で最大の効果を得る、その一つが亀山社中であった。

坂本龍馬の活躍において絶対的な支援者は、薩摩・長州・彼を育てた越前の殿様御家人の勝海舟・土佐藩では参政(知事)、後藤象二郎である。後藤家はお馬廻り250石の事務官、もう一人は武官の板垣退助で、両氏がいての土佐藩である。

坂本龍馬を育てた人物を紹介。西南の雄藩と共に、土佐藩の生き残る道を感じた後藤象二郎・佐々木三四郎・坂本龍馬は共にライフル銃の必要を知り、海援隊の龍馬に送り届ける役を授けた後藤、海援隊の隊長として長崎から最後の帰郷を果たした坂本龍馬の行動に、ピカリと「光る才能」を記したのでお読みください。

第2回 坂本龍馬が愛した長崎

慶応3年(1867)は大きく歴史の動いた年で、東奔西走の坂本龍馬は、参政 後藤象二郎や土佐商会、岩崎弥太郎の情報を受けて、隊士の見聞と比較・分析、隊の方針を西南の雄藩に喧伝、同年の夏海援隊は、運輸で活動を再開する。

龍馬が愛した第二の故郷長崎は、安政の開国後更に発展を遂げる。この街は江戸の初期、幕府の政策で中島川(小川よりも少し大きいくらい)の河口に、出島(15,000㎡・4500坪)を造成。1641年、肥前の平戸からオランダ人を移住させて国交を結び、西洋の情報を玄関口とした。それまでは海に面した寂しい寒村であった。

日本はオランダ・清国(異民族の満州人)以外の国とは鎖国し、窓口として出島が文化・文明を受け入れた。特に八代将軍吉宗の命で、青木昆陽は蘭語を学び「和蘭文字略考」を著し、江戸中期の学問は、漢学から蘭学へ、医術も漢方から蘭方の学問を求める人達も現れた、それは漢学の荻生徂徠が合理主義を唱え、学問の世界へ現れた一つの例で、貨幣経済の発達が世の中を少しずつ変えていった。

開国後、長崎へ海軍伝習所や医学伝習所を開設、幕府の顧問として2度目の来日をしたシーボルト(ドイツ人)先生や、ポンペ先生に西洋医学を習い、坂本龍馬の時代はボードウィン先生で各人は偉大であった、しかしオランダ語で話す、それをノートに書き写す、若き日本の医師達も偉大であった。

アジアの深い霧の中から、開国によって抜け出した日本の、神戸・横浜・長崎の街へ各国・各藩の進取の気性に富む人達が溢れ、土佐藩は参政後藤を先頭に、貨殖局を設けて外貨を稼ぐ、それは土佐にある楠で大木は皆伐、自己所有の楠もそれに含まれ、楠から採る樟脳は用途が広く、特に無煙火薬の原料として、絹と共に外貨の稼ぎ頭であったという。

長崎は坂の町で、元同志の近藤長次郎の眠る皓台寺へ坂を下り、墓前で額ずく龍馬は長次郎に囁くように、わしが留守で長さんを庇うことができずに辛かったのう、今度土佐へ帰るから「おまん」と同行ぜよ、家にも連れて帰るから待ちよりや、と語り終えて寺を後にした、優しい龍馬のその背中へ、十二夜の月が木漏れ日のように弱々しく照らし、辺り一面は寂しい墓地に変わっていた。

2年前に「亀山社中」最大の取引の依頼があった。長州へ「銃器と船」を引き渡す周旋であるが、その方策は一旦英国人から薩摩名義で購入をして、後日長州に引き渡し、長州からの返礼は米を薩摩へ送る、その大役を社中の営業部長として長次郎は取引を一任された。

無事大役を果たして伊藤俊輔(後の博文)と面談、伊藤はその謝礼として金子を長次郎に与えたと云う。この金銭を持って洋行を計画、それを問われ、仕方無く切腹をした長次郎であった。29歳

第3回 オランダ領事館

安政通商条約(1858)の締結後長崎の出島では領事館の一部を商人達へ賃貸に、島の出入りは自由であった。坂本龍馬たちはオランダ商人ハットマン商会の看板を目指し「海援隊の祐筆長岡謙吉」と通訳の平蔵を伴って橋を渡って行った。

そこは石造りの蔵(二度視察)で、如何なる輩も襲えない堅牢で、ガードマンが常駐、銃器商人は用心深く、初対面の龍馬は通訳の平蔵を介して挨拶を交わした。大らかなハットマンは握手を求めた時、流石の龍馬も照れながら握手を受け入れて手を差し出してハットマンと意気投合、すぐさま商談を進めた。

ここで欧米の銃について、ハットマンのミニエー銃(当時の最新式銃)は先込め式のライフル銃で、射程と命中率は高いが連発銃ではない。当時のヨーロッパは、大砲も小銃も、銃身内に施条を刻み椎の実型の弾を回転さしてマッハ2で飛ぶ、しかし連発銃は、銃社会であるアメリカに先を越されていた。

1860年咸臨丸が太平洋を横断してアメリカへ、その年アメリカは「スペンサー」七連発・十三連発銃を開発。(ドラマ「八重の桜」で八重が撃っていた銃)その後南北戦争が勃発、この戦争が銃器の開発を推し進め、ウィンチェスター十三連発銃や、二十連発騎兵銃を量産、特にウィンチェスター1873年式は名銃で、明治100年の記念銃として1挺10万円で販売。(機関部は金張り)

通訳の平蔵はハットマンへ、ミニエー銃1300挺と弾を注文、その支払い額にお互いが不満、結論に至らずついに龍馬は、1挺14両2分(4分で1両)と平蔵に伝えて、ハットマンへ握手を求めた。此処に代金18,850両で、銃の商談は成立を見た。(現在は一両60,000円位で計11億3,100万円位だろう)

次に支払いの条件で、ここから偉大な坂本龍馬が見えてくる、その詳細は薩摩の商人、広瀬屋丈吉と鋏屋与一郎、この商人に5000両を借りて、1000両は海援隊の金庫へ、4000両を手付けとしてハットマンへ、14,850両の残金を今日(9月14日)より90日後に為替で支払う。この内容で渋々ハットマンは承諾をするが、本来西洋人はゴールドの金で決済をしてきた、その長い歴史があった。

日本人が初めてゴールドの金で、物を買ったのは非常に独断かも知れないが鉄砲の伝来の時であり、それ以来ゴールドであった。しかし今日の為替で取引が成功したのは、西洋人が持っている商人たちへの評判で、押し並べて日本人は怜悧、そして約束は違わせない、その信用は、国交を結んだ出島以来のことで、オランダ人は全て心得ていた。

土佐藩お抱えの「海援隊隊長」と雖も、西南のある藩に於いてのみ通用、オランダ商人を相手に、大金の77%を為替で支払う、その取引を成立さした坂本龍馬を、経済学者・歴史学者は非常に高い評価をしている。彼本来の才能であろう。

第4回 長崎を出航

慶応3年9月初旬、薩摩と長州は倒幕に向けて、幕府の監視を避けるため、薩摩の蒸気船に長州兵を乗せて京都を目指していた。その行動は下関の会談で桂さん(当時は木戸準一郎を名乗る)と話した内容は極秘で、「薩・長動く」の報を確認して龍馬は決断、各隊士それぞれに指示を出し月夜の中、祐筆の長岡健吉を連れて、長崎は坂の多い街で、土佐藩重役の役宅へ向かった。

参政「後藤象二郎」(伯爵)・大目付「佐々木三四郎」(候爵高行)の2人と会談、薩・長の行動に意見を交換、ライフル銃の購入と、土佐へ送る方法も伝え、土佐藩の重役へ渡す書簡も受け取り、佐々木の下横目(刑事)岡内俊太郎を密偵として、土佐へ同行の許可も得て、激動の時代で、浪人でも御重役と会談できた。

帰郷する一行の人員に触れる。海援隊長坂本龍馬・同隊士中島作太郎(男爵信行)・岡内俊太郎(男爵重俊)・公家侍・戸田雅楽(うた・男爵尾崎三良)薩摩の商人広瀬屋丈吉の5人である。

この商人と鋏屋与一朗に、5,000両を借りており、ライフル銃100挺を抵当に渡し、200挺は隊士の菅野覚兵衛(龍馬の義弟)に、100両を添えて下関から別行動であり、土佐藩へ持ち帰るのは1,000挺であった。

以上の積み荷の準備を終えて出航をした船は、芸州浅野公に傭船した蒸気船「震天丸」(長さ45m×巾6,5m・喫水3m・80馬力・181トンイギリス製)で芸州藩の操船技術は未熟で、海援隊の指導を求むその条件があり、特に蒸気の上げ・下げと、逆波の舵の取り方に注意を払い、各岬の常夜灯の確認その他を指導、初めての航路で海図も無い状態でも、帰郷に逸る龍馬がそこにあった。

長崎や下関の見聞では、西南の雄藩と、土佐藩の武器の質に大差があり、肥前佐賀藩のアームストロング砲(施条式破裂弾)の威力に驚き、先月の下関会談の折、土佐は雄藩であり、薩・長・土三藩をもって京へ入る、その約束が木戸さんとあって急遽ライフル銃の購入と輸送、更に薩・長の行動を藩へ伝える、大きな目的の帰郷であり、水夫たちはこの数日を操船技術習得の機と捉え、坂本龍馬の言語を全て筆記、一挙手一投足に注目、塩飽諸島出身の水夫たちの機敏な連携が、船足を速め、龍馬得意の無駄の無い、合理的発想の指導力であった。

震天丸は荒波を物ともせず北上、五島列島から玄海灘に差し掛かっても、北風は吹き続け、帆船には無い蒸気で走る船の魅力を感じつつ、下関の常夜灯を前方左舷に捉え、水夫頭の寅蔵は龍馬せんせーいと、舳先へ走り依れば、水夫たちもそれに続き船内は喜びに沸いていた。慶応三年九月二十日、朝靄の中を進んで行く震天丸の勇姿がそこにあった。龍馬暗殺の二ヶ月前のことである。

第5回 震天丸、桂浜沖へ

長門と周防の2カ国があった今の山口県は、防長二州であるが、幕末史では全体を長州と呼び、支藩である長府藩は下関(赤間・馬関)が重要な場所で、北前船や他の船は、赤間関運上所(税関)を通過、重量税または重価税の徴収と、物資を積み降ろす場合は一泊を要す、それ故に町は賑わい、五万石の長府藩は運上金の収入で実質十五万石の経済であったといわれる。(学芸員田中氏談)

その下関へ震天丸は寄航、運上所の手続きが手間取って一同は夕方、「大年寄」伊東祐太夫の屋敷を訪れ、慇懃な挨拶を交す坂本龍馬は、お龍の礼を厚く述べ、この先も畏愛の心を忘れずと心に誓う。

翌日は竹崎の白石正一郎邸を尋ね、生前の高杉の人と業を語り、革命の前夜に倒れた親友を悼み、竹崎を後にした。

奇兵隊の創設者高杉は、俗論党(保守派)を退け藩論を倒幕に統一、若干28歳の天才晋作を、豪商白石は可愛がり、資金面で援助を惜しまず、また長州へ奔った土佐の志士達も、この豪商の世話になったといわれ、明治期に赤間神宮の初代宮司で、静かに志士達の霊を祀っていた白石を、旧恩の礼節と称し訪問をした、数名の土佐人もいたと、古老の口伝は今も赤間で生きている。

伊東邸・白石邸で数日を過ごした龍馬は、お龍を連れて赤間神宮で二人の出会いを回想しながら、石段を歩みその度にキュッ・キュッと長靴は軋む、その音は秋風に消えては生まれ、初めて聞く周りの人は、その「旋律」と「音の風景」の心地よさに、龍馬の足元を見て、不思議な履物の若者がいると思った。

慶応三年九月二十三日、百両と二百挺のライフル銃を隊士に渡し、大阪で再開を約し赤間関で別れ、震天丸は東進、左舷に壇ノ浦や前田の砲台跡を見て、四年前この海域で米・英・仏・蘭と攘夷戦を決行、藩の力が今も衰えぬ長州は、今京都を目指しているが、土佐の遅れに焦り、船内を往き回る龍馬であった。

豊後水道を南下、足摺岬を東進するもやがて戸原の沖へ、同年九月二十五日丑三つ時(午前2時過ぎ)隊長の坂本龍馬は頭の寅蔵を傍に呼び、前方に見る常夜灯の沖に停泊の指示を出した。

その常夜灯は桂浜の龍頭岬(龍馬像の場所)で今の灯台の役目を果たし、幕末近くになって幕府の外国船打ち払い令で、土佐の海岸に設置された砲台は数多く、近辺では前浜・十市にもあった。龍頭岬には砲台(火薬庫の跡がある)・狼煙場・常夜灯(灯台)が設置されて、数名が常駐をしていたと云われているが今はその片鱗は何も無い。

その岬の沖に停泊の蒸気船を、種崎の浜で見た人物がいた。仁井田の土佐藩御船頭中城助蔵さんでそれは次号に譲り、震天丸は込み潮を待って左にゆっくりと曲り西進して、浦戸湾へ入って行った。朝の七時前の事と云われている。

第6回 震天丸、袂岩に投錨

浦戸湾に面した仁井田は、少年の龍馬に大きな影響を与えた方で、下田屋猪三郎と中城助蔵の二人がいた。川島家の猪三郎は地球儀で、日本の位置と大きさを、龍馬に教え、国内貿易商で物知りでヨーロッパという四股名があった「継母」伊与の郷の伯父さんである。もう一人は船の魅力を教え、二十五日の早朝停泊中の震天丸を種崎から見た中城家の当主で、藩お抱えの大廻し船「お船頭」であった。(「大廻し」は土佐と江戸・「小廻し」は土佐と大阪を何れも直行)

龍頭岬の沖で停泊していた震天丸の一行は、飯を食べ終わり龍馬の伝言を静かに聞く。水夫頭寅蔵に告げる、あと半時(一時間)で投錨である、そこで数日を過ごし、お城下で大事を済ませば次は大阪へ行き、皆と別れるが、これからの半時は難儀な操船である、一同は頭の指示と、各自の持ち場をしっかりと守ってほしい。神戸海軍操練所で海舟伝授、龍馬恒例の訓示であった。

速力のある蒸気船が左に廻り浦戸湾に入る、その操船において目測の時代、高等技術を要し海図は無く座礁の心配と、大型船の航行区域の制定以前では小船が往来、さすが龍馬でも慎重でその手順は①岬を左に廻る②直進するも直ぐ右へ(今の大橋の下)廻り③直進すれば正面に御畳瀬の山が見え、東端は海に没し沖にある「袂岩」へ、その手順で頭の寅蔵は操船、無事に投錨を終えた。

小船を降ろし、密書を持った下横目の岡内俊太郎は、お城下「中の橋北詰」西の渡辺弥久馬(「藩重役・明治期・斉藤利行」)邸へ急ぐ、一方船内の四人は暗くなって中城家へ、先頭の龍馬は当家の息子を気安く呼び、亀(「亀太郎」)おるか―龍馬じゃ、すまんが風呂を借りたい、そして当主に挨拶を済ませて三人を紹介、離れの部屋(「建物は現存」)で旅装を解き、風呂で旅の疲れを癒した。

下横目岡内俊太郎が、藩重役に渡した密書は計三通、渡辺は差出人に驚き、同役の本山只一郎を訪ね、二人して下屋敷のご隠居へ注進を告げた。

書面を要約すれば、①は大目付佐々木の下役を差し向ける、藩が今如何にすべきか、参政「後藤象二郎」が述べてある。②は、薩摩と弊藩は行を共にして、今京都を目差している、尊藩は如何に、長州藩主「毛利敬親」家臣木戸準一郎。

③は新式のライフル銃1,000挺を持ち帰った、ご会談を、不要なれば長州が引き取ると、伊藤俊輔の添書があり、藩お抱え「海援隊」隊長坂本龍馬とあった。

慶応三年九月、京都藩邸より土佐へ注進はあったが、三通を読んだ家老達の動揺に、家老深尾弘人蕃顕(ひろめ・しげあき)は三名の重役に指示、龍馬指定の茶屋で第一回目の会談を行う。慶応三年九月二十六日夜「松ヶ鼻番所」、(「三ツ頭・常盤町、舟着き場の番所」)で龍馬・渡辺・本山・森の四名である。

第7回 坂本龍馬、会談を重ねる

二十六日城下より帰った岡内俊太郎は、ご重役の反応を坂本龍馬へ告げる。其の概要は、書簡の差出人と文言の重大さに、大殿と十一家のご家老で議を開き、お馬廻り格の重役三名を選び、今夕松ヶ鼻番所隣の茶店で龍馬と会談である。

此処で龍馬の身分であるが、二度目の脱藩罪は、長崎で後藤象二郎から許されても城下にその報は無く依然として脱藩の身であり、江の口川を上り暗くなってから、芦の中へ船を止めて、番所近くで指示された茶店に入っていった。

江戸期にお城下へ入るには東は山田町の番所・西は思案橋の番所、海に面した松ヶ鼻番所は、船を利用する人達の番所で、それゆえ人の集まる町で、当時は茶屋と称した花街が、軒を連ねていた。其の茶屋の暖簾を潜る龍馬は坂本家の違い枡の家紋の羽織と袴の正装で、お女将の案内で部屋に通された。

右手に太刀を持ち、八畳の間に入ろうとするも、部屋には上士格と思し三名が背を向けて正座、部屋を間違えたと思い無礼を詫びるや刹那、坂本殿お入りくだされ、と渡辺弥久馬は床前に郷士の龍馬を招いたのである。

お馬廻り三名は歴とした藩の重役である、京都情報と銃器買い付けに対して、その功績で龍馬が主役で会談が行われ、この場の身分的差別云々は不問、一介の郷士であっても藩お抱え「海援隊」隊長として龍馬を遇しており、土佐藩が彼の才能を優先とした表れであった。

それは二年前の五月勤王党の党首を弾圧し終えてから、初めて気がついたことで、それは藩重役の愚かな所業であった。

渡辺弥久馬(「参政350石・明治期斉藤利行(つら)官吏」)と本山只一郎茂任(「大監察」)そして森権次(150石)たちは、上座の龍馬を見据えて、この度の坂本殿の遠路に及ぶ早々のご注進、大殿は痛く感じており、その一行を労うようお言葉を頂いておる故、我等が出張った次第で御座る。と渡辺が告げ、今夜は我等と酒酌み交わし、長崎や西南諸藩の情勢を、貴殿の見聞として我等に話して下され、と龍馬の言質を本山は求めた。

それらの流れを一部残らず祐筆に逸る森は、懐中より矢立て墨筆を手に取り周到な準備で書き取る、方や龍馬は床前で両手を突き、二方の口上を聞き入っていた。

これは主客処を替へる、珍奇な形態であったが(下士が床前に座り手をつく)それは下士が自然に取る、上士への礼儀であって、脱藩の身でも礼は弁えている坂本龍馬である。

幕末土佐において上士・下士が一同に会し藩を語り助言を請い長崎の情報と、持ち帰った銃器の買い上げなどは、初対面の挨拶では語れず、後日の会談(明日吸江寺)を約し、家中の同胞・竹馬の友か、後は雑談を交し深更に散会となった。

第8回 吸江寺の会談

昨夜松ヶ鼻の会談は格式ばった儀礼的で、今夜の交渉は土佐藩が先発の薩・長と歩調を合せるか否かの重要な会談で、龍馬は後藤参政・佐々木大目付の名代でご重役と二回目であり、そこは人の目が遠い五台山西麓に建つ吸江寺であった。

この様に場所を変える龍馬は、下横目や捕吏に気づかれぬよう注意が必要で、昨夜ご重役に通行手形をお願いして今夜受け取る用意であった。

臨済宗妙心寺派「五台山吸江寺」は禅宗の寺として鎌倉時代後期の文保二年(1316)夢想礎石が開く。幕末時代の吸江寺は七堂伽藍が建ち並んだ大寺院であって寺領も多く、藩主菩提寺の「日輪山真如寺」(曹洞宗)と並び称されていた。

余談として津野山郷船戸の少年二人に入山させて、夢想礎石はよく教え、後年二人は京へ登り「義堂周津」・「絶海中津」を名乗り、五山文学(京都)の双璧と謳われ、時の三代将軍義満の政治顧問であったと歴史は伝えている。

更に江戸時代、野中兼山と絶蔵主(後の山崎闇斎)は南学の学窓を巣立ったが、兼山没後藩は南学を禁止(南学の四散)、それゆえ闇斎は里の京都へ帰り塾を開く、門弟は数千人で神道と朱子学を融合させた垂加神道を興し、江戸前期の大学者で、会津の殿様「保科正之」の侍講も勤めた。

この様に四散した南学は他国で花を咲かせたと伝わっており、「谷丹三郎重遠」(秦山)の師匠でもあった。

五台山北麓のお旅所(神様のお宿)で小船を降りた坂本龍馬は、船子に一時余りこの地で待たせ、天保銭(百文)を渡して山に消えていった。

山門を潜れば修行僧が待っていて、足元を照らした提灯は吸江寺と書かれ、その文字の揺れを見ながら歩を進めた龍馬は、見えぬお城下を見据え、目頭に滲んだ涙を堪えていたが、いまだ帰れぬ想いが更に目を熱くして、着流しの袖で目頭を何度も拭った。

脱藩以来五年の感傷的な龍馬がそこにあって、その空気を察した修行層は提灯で招き、所定の部屋へ案内をした。其の部屋には三個の行灯が灯り、昨晩の重役三名が待っていた。

寺務所横の部屋で歴史的な会談で斉藤は、藩庁は貴殿の呼びかけに大評定を開き、三通の書簡で向くべき方向を決め、我々をもって銃器買い上げを決定との報を受けた。

その後大殿の建白で大政奉還は成就。それはこの銃器その他が背景にあって、後の薩・長・土といわれる所以である。

浪人の身で藩を動かす、それは貨幣経済と合理主義の発達で「才能ある人物」が政治と社会を動かす現われで、幕末では坂本龍馬・慎太郎・長州の村田蔵六(大村益次郎)・高杉晋作・伊藤俊輔(博文)などで、伊藤の言質であるライフル銃は長州が買い受ける、その「文言」に「ゆとり」の坂本龍馬と、慌てる土佐藩があった。

翌年の1月3日、鳥羽伏見の戦に致道館を出発、龍馬のミニエー銃を携えて行く。

第9回  半船楼の会談

松ヶ鼻の茶屋で始まったご重役と重ねてきた会談は順調で、昨夜の吸江寺で余裕のあった坂本龍馬と、渡辺殿たちは焦りと不安が重なって言葉も少なかった。

家中の侍の多くは直接にして物を買わず使用人で用を足してきた。それは家代々の慣習であって、此度の三氏は歴としたお馬廻りの上士で藩の重役であり、買い物その他においてその支払いの仕組みや商法がわからずに慌てていた。

商家才谷屋三代目の直益が長男兼助を分家させて町人郷士となった。その四代目の次男龍馬は貨幣経済において非常に明るく(ハットマンと支払いの件で既説)隊長の立場として、藩庁は今何を如何すればよいか、手に取る如くわかりそのために銃器を持ち帰ったのであって、其の支払いの期日・方法について龍馬は極静かに自然体でゆっくりと三氏の御重役に説明を始めた。

ご重役の開口一番、さすれば坂本殿、其の大金は後日の十二月十四日の支払いで御座るかと問いかけた、その本山氏は戦国の武将「本山茂辰」のご子孫で武士道(「忠誠・信義・尚武・名誉等」)は格式が大事で、貸借は誠に不慣れであった。

余談であるが各藩の多くの志士たちは、明治維新後に栄達、その経世家たちは、薩・長・土・肥といえども元は、低い身分層の人が多かった。

龍馬の諭すような言質によって気分が晴れたのか、三氏とも急に元気となり龍馬殿一献差し上げるので飲まれいと、三氏のこの場の空気の温度差には、荒波を乗り越えてきた龍馬でも、さすがに驚き上士達が可笑しくも思えた。

三度目も会談の場所を変えた。そこは五台山「竹林寺」の門前で山の南麓、坂本(地名)の料亭「半船楼」、ここは浦戸湾の最奥部で下田川の河口にあり、物資が集散する場所で人の往来が多く、船宿・木賃宿・料亭その他で一種の門前町の形態があったが、物資の輸送が変わって往時の姿が今は何も残っていない。

半船楼では今後の見通しがつき、この三日間において重役として面目が立ち、その開放感なのか彼らは江戸・京都以外を知らず、長崎の町や出島の異人の生活の習慣・言語・風俗・風習・その他を聞きたがり、無礼を詫びながら今までの見聞を竹馬の友で、主観も入れながら延々と半船楼で熱弁の坂本龍馬であった。

当時は西洋の文化・文明を多く受け入れた人物を求めた才能の時代である。その才能は子どものころ仁井田の二人(川島・中城)・河田小龍らの見聞で培われ、脱藩後・幕臣の勝・大久保一翁・越前の殿様・他藩で官僚の人物・豪商らによって磨かれた。

当時は身分社会で龍馬の人脈は稀有で、受け入れた人物も合理的主観を持ち、時によって身分社会が邪魔と感じた渡辺弥久磨・本山只一郎・森権治の3氏で、この時点で崩壊する幕府を感じるは、さすがにいないだろう。

第10回  最後の会談

最後の会談を半船楼に開く、土佐においては脱藩の身で、その為に転々と場所を変えた。今夜は良い返事あり、と想い早く出かける。先日と同じ上士で既に着座。龍馬は口上を述べて重役たちへ、ご返事をと切り出す。

渡辺・本山・森氏は笑顔であり、長老の渡辺は、坂本殿この度の働き、ご隠居は強く感じており、明日、主たる重役を招き散田屋敷に大評定の運びである、と返事をうけ賜る。

更に、近き日の拝謁、叶うであろう。と、告げられて、平伏した龍馬は、感涙をこらえながらゆっくりと、ご隠居さまには、望外なお言葉を受け賜り甚だ以って、幸せで御座ります。御重役様に於かれましても、度重なるご配慮を受け暑く御礼申し上げます。

この度は、銃器を藩へ納入、それが目的であり、交渉は有利にすべく、長州、桂氏と海援隊、隊長の密書二通を藩庁へ差し出す戦略。そして、その前に重役たちに見せて動揺をさす。そして会談を有利に進める、その戦術とした。この度の行動は才能の成すことで、龍馬にしては自然態であった。

昨夜の会談に、充分たる手応えを感じて、今朝はゆっくりしてから、船頭一同を集め、是までの労をねぎらった。この度の帰郷は、芸州浅野候の蒸気船、震天丸を傭船、船頭及び水夫たちに操船を指導する、その約束もあり浦戸入港は船頭の主導であった。芸予諸島の急流に育った男たちでも、大型蒸気船の操船技術は未熟で、それを補った龍馬であった。

思えば数年前、神戸海軍操練所へ入るまでは、操船の知識は皆無であった。人との出会いによって、今では蒸気を起し、操船術をもって他藩の船頭たちに、指導をするまでになった。

いよいよ明日は生家へと、その嬉しさよりも、脱藩、という非常の手段で国を抜けて5年になる、継母や兄、姉たちに安心を、そして今置かれている自分の立場を、伝えたくて龍馬の心中は、穏やかでなかった、

土佐藩お抱えお船方、中城家当主助蔵にはこの度の仔細を話し、明日藩庁へ銃器と弾薬の受け渡し一切を任せてあり、お船方大勢の人夫たちは手際よく荷捌きをして小船に積む。

この船は明日土佐藩御用達の幟を船首に掲げ、三つ頭の番所を抜け、運河を北上、木屋橋と播磨屋橋を潜り、使者屋橋界隈にある藩の蔵へ運ぶ予定であった。

土佐藩のお買い上げになる銃、この銃はフランスの軍人、ミ二エーによって開発されたミニエー銃で、この当時のヨーロッパでは、連発銃は開発されず、先込め式のライフル銃であった。

余談としてアメリカは1860年、元込め式7連発のスペンサー銃を開発、その後ウィンチェスター銃の13連発と20連発の、歩兵銃や騎兵銃を開発。それは61年に勃発した南北戦争が、開発を推し進めた。

やがて終戦、その後のアメリカは、西部開拓の時代となり、1873年式のウィンチェスター銃は、余りにも有名なライフル銃であった。

話を戻す、この弾はどんぐり状で、銃身の内部にある三本の施条(ライフル)によって、70センチの銃口まで1回転半で発射、音速の2倍で飛ぶ。

土佐藩は前年(66年)、1500挺を購入、そしてこの度1000挺を、全て洋式銃

第11回 坂本龍馬・生家へ ①

三十三歳の短い生涯であった坂本龍馬は、幕末混迷な時代に志を持って友と脱藩、行く当ても無く知人のいる江戸に行き、千葉家の縁によって初志を変えざるを得ず、当時は考えられない幕臣の従者として、江戸・京・その他を駈け廻り、神戸海軍操練所で操船技術を学び「蓋し」勝塾の塾頭をも努めた浪士であった。

龍馬が出会った人たちの関係を考えれば、神戸の半年は非常に密度が濃くて、この経験を基礎として浪人集団の亀山社中、更に土佐藩の海援隊へ発展をした。

その隊長として土佐へ帰って来た龍馬は、事務的な件は全て了、仲間の戸田雅楽を伴い、生家を目差して仁井田を北上、潮江川を遡り筆山のお墓(父方の山本家)に合掌して帰郷を告げた。

やがて右にお城が見えたとき高知へ帰ったことを再認識、郷士といえども侍の社会で、上士と同じくお城というランドマークを見ることで心が落ち着き、思考も冴えて子どもの頃を思い出していた。

やがて小船は築屋敷の岸に着いたとき、この川原では姉と遊び水に慣れた少年期によく泳いだと傍らの戸田に話せば、わしも田舎の川に体を委ねたことよと三条家の衛士らしく極丁寧な京言葉で話し、静かな空気が一瞬そこを流れた。

築屋敷を一丁ばかり北に「魚の棚」が、そこに差し掛かった時「龍馬さん」と呼ぶ声に足を止めた、鮎を専門の寅八(「得月の先祖で松岡」)と干物屋の仙吉で、その二人と話す龍馬を見つけた若者は急ぎ足で坂本家へ知らせに走った。

坂本家当主の兄権平は不在で、義母の伊与が姉の乙女と半丁足らずを駆け走り、右に曲がる角に秋葉神社(鳥居の寄進者寅八)がある、そこから南へ魚の棚の通りで(現存)龍馬は母親と姉に五年もの久しき劇的な再会であった。

坂本家は裕福な郷士で、今夜はこの棚にある品で酒宴を張るので運んでほしい、また皆さん方に酒宴の場へ来て帰郷を祝して下されと、当主の依頼であります。と家僕は丁寧に伝えた、この辺りに豊かな郷士の家風が垣間見える。

夜になって酒宴の場に龍馬さんが「もどっちゅう」と、その噂に友人・知人が尋ね、望月亀弥太・池内蔵太の縁者と内儀もきた。亀弥太は神戸海軍操練所の訓練生であったが、元治元年六月五日新撰組が京都三条小橋(「高瀬川に架けた橋」)西の池田屋を急襲その時に斃れ、内蔵太は度重なる戦に参戦、傷も負わず歴戦の雄であったが、帆船ワイルウェフ号の沈没で溺死をした。

二人の話を伝えて龍馬は縁者と内儀の手を取って辛いのう、辛いのうわしも辛かったが二人をよう弔ってくだされと、龍馬の目に大粒の涙が溢れ、すすり泣く二人に堪えきれず泣きそうな龍馬は、羽織の袖で何度も目頭を拭いても涙は溢れ、明日も長さんの家で同じ涙が、帰郷しても落ち着けぬ龍馬であった。

第12回 龍馬・生家へ ②

龍馬は五年ぶりに生家へ帰り、両親と次姉の位牌に帰郷の報告と親不幸を詫び、今までの行動は何であったのか深く考えて顔をあげた。その龍馬の姿勢を義母の伊与と姉の乙女は無言で静かに見ていた。その時外から帰ってきた兄権平が鋭い声で、龍馬は居るかといって足早に八畳の床の間に入ってきた。

ここに義母と兄弟三人が久しい語りを交し、姪の春猪もその輪に入ってきて、龍馬叔父さんお帰りと小さい声で優しく迎えた、その姪の声に今まで沈鬱であった龍馬は我に返り、両手を突いてお母さん・権平兄やん・乙女姉やん、この度の行動を許してください、と小さくも力のあるその声は床の間に響き、許しを請う次男の丈夫さと気力ある姿勢に、位牌の両親は屹度安堵をしたことだろう。

坂本家自慢の入母屋(屋根の形)造りの客殿は八畳二間に並べた膳に、友人・知人・近所の方で溢れ帰郷を祝した。一方同志の縁者・内儀たちも駆けつけて帰郷の挨拶を交したが、その後は下を向いて押し黙った。それは音信不通の身内の事を聞くのは場違いであり、その上真実を知るのが怖かったのである。

悲しむ同志の内儀や縁者らとともに涙した龍馬は、異郷の地で果てた多くの同志を脳裏に浮かべ、明日は訪ねたい饅頭屋長次郎の位牌を、八畳の枕元にそっと置き、長さんよう今夜はわしと寝ながら子どもの頃の話をしてやるから聞いてや、と切なくもあるが話しかけた龍馬の優しさがそこにあった。

生家の西一丁余りに饅頭をもって生業とする大里屋(大忍)があり、三歳下の長次郎は稀有な秀才で、藩が認めて上士の由比猪内の従者として江戸に行き、当時四斎の一人といわれた安積艮斎の門に入る。

この様な例は幕末他藩でも、例えば長州の桂小五郎は伊藤俊輔(農民・後の博文)を「育み」と称した従者にして外交に連れて行き、他藩の志士と交わる場合は長州藩士と名乗り、長崎に常駐をして蒸気船ユニオン号(木船300トン)と銃器の買い付けの責任者であった。

その取引の周旋をしたのが亀山社中の近藤長次郎であって、伊藤は近藤の周旋によって長州は生き返れると確信をして(「当時の長州は外国と取引できない」)長次郎に謝礼金を渡した。その金で英国に渡航しようとした計画が発覚、社中の仲間に強く詰問され致し方なく切腹をして許しを請う。(今皓台寺に眠る)

龍馬はよう起きんかね、と言って荒っぽく布団を剥ぎ取られた目の前に襷掛けの乙女姉やんが、そんな夢を見たその勢いで飛び起きた。藩において功績大の坂本龍馬でも、生家では頭が上がらぬ子ども扱いの姉の夢であった。

慶応三年九月二十九日早朝大里屋伝次の店に行く、勝手を知った裏口に行き声を掛けようと、そのとき板戸が開いて妹の亀が、あっ龍馬さんと声を発した。

第13回 家族で墓参

変名「上杉宋次郎」と名乗った長次郎は、隊士の仲間内では頭脳明晰で二番目がいないほどの秀才に、手違いが生じたという。

当時京都にいた坂本龍馬は維新史上最大の功績である薩・長同盟に向けた下工作をしていた。その同盟の締結(慶応二年一月二十一日)七日前に、盟約違反によって上杉宋次郎は賭腹して果てた。

龍馬は長崎を発つ前に、皓台寺の墓前で長次郎を土佐へ連れて帰る約束をした。

その位牌箱を持って早朝に大里屋の勝手口から入って行き、おはよう御座いますと声を掛けようとしたその時、妹の亀と出会った。妹に急用を伝えて朝の勤行中の伝次おじさんに位牌を手渡して長崎の顛末を長々と話し始めた。

大阪の商人の娘徳子に生ませた「百太郎」がいること・隊士としての力量・先見の明・奇才のある隊士・通詞(蘭語・通事は清国語)も手懸け隊に掛け替えのない同志であったことを。しかし位牌を手にして力無く聞く父・娘であった。

昨夜と今朝同志の不幸を伝え身内同然に哀れ悲しみ、その場におりづらく背を向けて立ち去る龍馬に、孫と長次郎の、、、あとは無言で震えながらに問う伝次の掠れた声であった。余談として長次郎の妻徳子に一子百太郎があり、和子更に川邊徳次郎がある。

この様にご子孫は繁栄をしているが、この傍系のご子孫の多くが、カタカナ(米・英・仏)の名前の方と結婚をしている。長次郎は渡英には至らず、数代を経たご子孫たちがその思いを果たし、先祖に変わって極自然的に果たしていると思えなくも無い。また妹「亀」のご子孫も伝わっている。

鎌倉時代成立した荘園に大忍(さと)荘があり、伝次は大忍を大里と書き直して屋号にした?これは筆者の見解で、因みに近藤氏は夜須で反映している。

その後生家に帰って、丹中山(たんち)の先祖の墓参に家族で行った。この丹中山に母「幸」を埋葬の時、少年の坂本龍馬は母恋しさで棺にすがりつき泣き叫んで、姉の乙女が抱いて慰め頭を撫でたことを兄の権平は思い出して、龍馬に話したその反応は、いやぜよ兄やん、わしゃあ33歳じゃきからかいなや兄やん。

墓所は上下二箇所にあり、上は郷士の初代と二代の夫婦墓で、廻りは土用竹に囲まれてうす暗く、鎌を手に雑草を刈るその素早さは、龍馬ならではの仕種であった。

下の墓所は三代目(両親)と次姉「栄」の墓が墓域外の一段高い所に川石数個で密葬。その訳を兄「権平」から聞いた龍馬は、墓標がない栄の墓前に額づき「栄姉やん・栄姉やん」わしのためにすまん、許して許して姉やんと許しを請う龍馬は五年前、脱藩の時に姉から刀を貰った事を思い出していた。

昭和四十二年筆者の見た墓域と、龍馬時代の墓域は同じ。今は開発で上の墓域は下に改葬、一面が歴史公園に整備され墓参が容易。墓地にて墓地に非ず也。

第14回 土佐藩に残した龍馬の功績

江戸期のような身分社会において、脱藩浪士を信じ共に行動を興し、計り知れない度量と裁量に長けた侍は、合理的な思想を持ち合わせた稀有な土佐人で、隠居容堂候に愛されていた「土佐藩参政」後藤象二郎その人であった。

龍馬は大政奉還を説くため、山内容堂を動かそうとして、土佐藩重役に近づく、その人物は長崎時代に世話になった藩の「参政後藤象二朗」であった。この時期は慶応3年9月下旬のころで、既に薩・長の密約(倒幕)を土佐は知っており、土佐に知られていることも薩・長は知っていた。この点が重要である。

この関係で一歩前に出るために動いたのが後藤・福岡の両名で、隠居容堂候

に事の成り行きを奏上、そして後藤象二郎と福岡籐次が山内容堂候の大政奉還の書簡を将軍・徳川慶喜に提出した、それは慶応3年旧暦10月3日である。

同月12日に幕府老中等に大政奉還を告げ,翌13日に在京諸藩の重臣を招いて是を伝えている。集まった在京諸藩士は丁度50人、その後、意見のある者は将軍が聴聞に及ぶから残れと言われ、土佐では後藤象二郎・福岡籐次、薩州の小松帯刀、芸州の辻将曹の4名であった。この時の意見は「御英断、感服仕って御座います」だけであった。小松と辻が残ったのは、土佐藩に陰謀を暴露させないためのお目付けであったと云われている。

慶応3年10月14日、京都二条城に於いて、薩摩藩・安芸藩・土佐藩などの各藩が同席したなかで大政奉還の要請書を朝廷に出した。この大政奉還の意思を示したのが京都二条城の黒書院であった。

この様に脱藩浪士の身分であっても、世の中を一変にするほどの大きな仕事が成せるのは、これ偏に「才能」である。幕末には外国と経済活動が活発になり、それまでの門閥に偏っておれない時代が幕末で、各分野において才能ある人物が現れている。坂本龍馬・中浜万次郎・福沢諭吉・大村益次郎・三岡八郎等、彼らがいたので明治・大正・昭和えと閑暇なく過ごせて今の太平がある。

前回にお話致しましたように、龍馬が土佐藩に持ち帰ったライフル銃1000挺は土佐藩の兵站が管理をしていた。明けて慶応4年正月3日京都の鳥羽・伏見で、薩・長連合と幕府側で戦闘が始まった。戊辰戦争の発端であり、この日土佐藩は中立であったが、明けて4日に薩・長に加担をしている。その報は土佐へ伝わり、体制を整え13日に「致道館」正門〈現存〉を2列縦隊で出発をした。

総督は乾退助で彼らは「迅衝隊」と呼ばれた強力な土佐兵で、高松を接収して京都へ、龍馬が持ち帰ったライフル銃が威力を発揮する前夜であった。京都を後に、東山道を東へ目的地は会津で、母成峠は悲惨な戦いであったと伝わる。

第15回 坂本龍馬と蒸気船

日本の船は、板を張り合わせた、板張りのような船で長い時代を過ごしていた。言い換えれば「タライ」のような船で数世紀を重ね、瀬戸内を西に、下関から日本海を北上、所謂北前船が早くから発達していた。18世紀に太平洋航路の発達で経済が賑わったのは、竜骨が入る大型船が建造されたからである。

その後19世紀は蒸気船が主流の外国では、ぺリ-が浦賀にきて外交を迫り、日本にも蒸気船の時代が来た。1860年代は各藩が競って蒸気船を求めた。紀州藩は明光丸を買い、大洲藩はいろは丸を買った。明光丸はグラバーから155000弗で購入、41間で幅5間、深さ3・5間150馬力のスクリュ-式鉄船である。

いろは丸は、1862年英国製、同3年薩摩藩に売却、慶応元年薩摩はボ-ドウィンに売却、翌年彼は75000弗で売却して薩摩藩はいろは丸と命名、同年1月5日薩摩はポルトガル人、ショセ・ロウレイロに売却。彼は大洲藩に売却。30間・幅3間で160トン、スクリュ-式鉄船・軽自動車以下の45馬力である。

大洲藩はいろは丸を運用して坂本龍馬と組み殖産を始めようとしていた矢先、

慶応3年4月8日、再度長崎に入港したいろは丸を後藤象二郎が待ち受けていた。彼は土佐藩の文官で商魂逞しい執政で、一航海五百両の賃貸量で大洲藩よりこの船を借り受け、航海を計画した。

この船は4月19日、海援隊の面々と大洲の船手の水夫で出航、積み荷は米と砂糖、他の物は少々、航海の目的のヒントが、河田左久馬と印藤肇に宛てた龍馬の手紙には、北行、竹島行、エゾなどのキ-ワ-ドが見える。万次郎と龍馬の接点を用いた協力関係があったら、という思いは万人共通だろう。少年から青年期をアメリカで過ごした万次郎は、合理的な思考で、人間の能力を建設的に活かす事が出来るのは、組織においてしかないということを知っていた。その意味において、万次郎と龍馬は、水と油であったかもしれない。

いろは丸は4月23日夜半、讃岐箱ノ岬沖で、紀伊藩船、明光丸と衝突し、いろは丸を鞆ノ浦へ曳航しようとしたが、宇治島付近で沈没。鞆ノ浦で数度の

交渉は不調、高柳は龍馬に長崎で、再度交渉の旨を告げて夫々が長崎へ行く。

この衝突事故当時国際法はあった。船舶は最前のマストの頂上に白灯、左舷に紅灯、右舷に緑灯をつけ、行き違いは相手の左舷の紅灯を見ながら通過が原則、つまり右側通行で、この原則は現代でも変わらず、事故後、両藩に一次資料の記録はない、明治期に土佐文人による作話が氾濫し、混乱を助長、文学作品は作話で成り立ち、歴史研究で批判は筋違いで、文学作品は歴史事実と違う。

第16回 龍馬と田中良助 その1

郷士、坂本家の領地や山林の管理を任されていた、柴巻の豪農田中氏の出自は筆者には分からないが、天保郷村帖によれば、土佐郡地頭分村枝郷柴巻の住人として、古くからの居住歴が明確に位置付けられて疑う余地は無い。

十八世紀末、坂本家は膨大な山林を所有していたという、それらの山は坂本山と呼ばれていて、その山林の管理者であった田中良助に触れてみましょう。

柴巻の田中氏といっても、田中氏単独では歴史の上には出てこなくて、単なる柴巻の百姓で、それが良助の代になってから、「郷士坂本家」と、山林の山番を任されてから関係は深まり、三代八兵衛直足から、四代権平直方の代に至り、出入りの都度に、次男の龍馬を知ったことが、歴史に残る重要な要素であった。

しかし頻繁に出入りがあっても、単なる柴巻の田中であり、山番の良助であったが数年後、大人になった龍馬と極親しかった事で、良助は腹の大きな人物として、今日に到り歴史愛好家は、旧邸やお墓・八畳岩を見て騒ぐのである。

城下の西端で才谷屋を営んでいた「三代目直益」は、商品経済の流通に乗って更に資産を増やし、学問や神道にも精通、城下では稀代の文化人と交流を深め、藩主にお目見えも許されていたと伝わっている。(藩へ多額の献金あり)

彼は宇和島の「和霊神社の御霊を勧請(山家清兵衛公頼)。坂本家の守り本尊として高知市神田に和霊神社を建立、今に至り神社の崇拝者は多く、龍馬脱藩祭を、毎年の3月24日に行い、神社は賑わっているのはご存知の通りであります。

古今・業種を問わず、三代目になれば隆盛を極め、才谷屋直益も明和年間(1764~1771)に長男の兼助を「郷士坂本家」として分家をさした。その資産は農地を177石(17・7町歩)燃料である薪炭用の山林が柴巻に多くあったという。

9番目で勤王党に所属していた龍馬は、如何なる行動も、兄の許しを受ける立場であった。その彼は、幼くして母をなくし、沈んでいた少年時代の龍馬を、洟垂れ・泣き虫・しょう便たれ、と呼んでいたらしいが、これ等は脱藩後、他藩の志士と交わり数々の功績を残した龍馬を、偉大な龍馬に仕立てる策であって、それは一種の修辞で、修辞学に長けた小説は面白くてよく売れるらしい。

文久元年(1861)八月、江戸で結党した勤王党は暮に他藩へ密使を、その人選は他国に精通・路銀の賄い・自由で剣の鋭い龍馬を選び、長州の久坂玄瑞に尊藩の決意と今後、を聞き取る重要な使命で此処に、志士龍馬の誕生である。

第17回 龍馬と田中良助 その2

藩政に具申の目的を持って、政党を立ち上げた、盟主半平太の意見としては藩政の改革であった。しかし他藩でも同じであるが、一門・ご連枝からは既得権を守る行動が有り、思うに任せられない状態であった。この様な苦境を脱するには、他藩の意見を求めて参考に、それは穏密の行動で、青二才では勤まらず、盟主の親戚筋、28歳の「坂本龍馬直柔」が名誉の使者となったのであった。

前述したように、部屋住みの龍馬の行動には制限があった。養育人である兄の差配で日々の活動があり、長州へ隠密云々はとても云えなくて、考えた策を兄権平に伝えて、許可をもらった。この嘘を言うのは苦渋の策であって、生真面目な兄にはすまない想いであったが、勤王党を背負った行動であれば、権平兄はきっと許して下さる、この様な自問自答で、己を納得さした龍馬であった。

「権兄やん、わしは江戸から帰って4~5年が過ぎて、北辰の腕が鈍ってきそうになった、丸亀に行かしてもらえんろうか、京極のお城下には、同派である矢野道場の先生に、北辰の腕前を見ていただき、更に上に進みとう御座います」

この様な嘘をつかざるを得ない龍馬に、同志たちは手を取り合って、心情を察する余りに、肩を抱き合って、啜り泣きをする同志たちで溢れ、新町田淵の道場は、すまんのう龍馬さんと、繰り返すその声の傍らで、お主の背の立つ場所は我々に任せて下され、その声を発したのは盟主の弟、田内衛吉であった。

丸亀の矢野道場へは、3日もあれば行ける。数日の滞在費用と生活費その他を算出して、貰った費用では少し足りないが、兄には言えないので、饅頭屋の長次郎を呼び出して、離れの部屋で話していた、その時に運は開けたのである。

善人が,悪知恵を出しても、知らずにそれに同意する者がいるらしい、この時は、柴巻の田中良助その人で、彼は急用を告げにご当主を尋ねてきたが、留守を告げられて思案の末、離れにある龍馬の部屋に行ったのであった。この時に「歴史は動く」瞬間で、知る由もない彼は、私用を告げにきたのであった。

相談を受けた良助は、よろしゅう御座いますお坊ちゃん、この良助にお任せ下さいませ、明後日にはお伺いします、二両でよろしいでしょうか、この様に礼儀正しい良助に、礼を述べる龍馬であった。この時の借用書は、150年余を過ぎた今も残っているために、良助の度量は侠客の様な強さと優しさが見えます。繰り返しますが個人では歴史に残れない、友や事はすごく大事、大切にしましょう。

第18回 奔る密使・龍馬 その1

嘉永6年(1853)6月5日、相州浦賀へ、米国の艦隊が突如やってきた。鎖国日本を心得ながら開国を迫ったといわれ、当事の人達はこの大事件をどの様に見ていたのか。江戸にいた龍馬は、浦賀の浜で多くの人達と、どんな思いで見たのか、龍馬のその後を知れば少なからず影響を与えた事は明白である。

当時の日本にとって一大事件であったが、幕府は五年後に安政の五カ国条約を結び、その内容は不平等条約であった。時恰も、次期将軍の継嗣問題で「南紀派」と対立していた「一橋派」は、井伊直弼への批判を強め、有力大名たちは城へ、大老井伊直弼を訪ねるが、不法な登城と差し止められて処罰を受けた。

朝廷でも井伊直弼に対して、京都に来て説明をせよと命令をするが、井伊はそれも無視し、癸丑以来の志士達は、井伊の行動に不満を抱き、天皇を尊び開国に反対する「尊王攘夷運動」が西南に広がり、所謂志士の時代が到来である。

現世の不穏な空気に井伊は、安政5~6年にかけて反対派を処罰した。これが所謂「安政の大獄」で、十五代藩主山内豊信(しげ)公も、品川の鮫洲に隠居させられて「容堂」と名乗るが、この隠居を気遣う郷士、庄屋達が大勢いた。

「土佐勤王党」。このスマ-トな呼び名が大好きで、筆者の屋号は「勤農家」と名乗って早くも十年になります。余談ついでに、5月11日は、盟主武市 半平太 先生の命日祭であります。吹井地区の友人のお世話で毎年行われ、ご子孫と各関係者50~60名で厳かに執り行われました。その記念講演を続けて二度も受け賜り、今もその喜びに浸っているところであります。(2017年は152回忌祭であった)

万延元年(1860)3月3日、雪の降る桜田門外に銃声一発、暗殺団の指揮者、関 鉄之助の采配と云われているが、この事件を境に政治は京都に移り、西南の雄藩が公家と結ぶ、例えば、薩摩は近衛、長州は鷹司、土佐は三条と、この様な不穏な時、互いに力を出し合って、難局を乗り切る立場を有利にしていった。

同時期、大石 弥太郎(野市の郷士)は藩命を受けて、江戸で砲術の修行に努め、当時の江戸では「癸丑以来」の志士達が多く,薩摩の樺山 三円、水戸の岩間 金平らと交流で、時勢を語り土佐の立場や今後を思案の末、同い年の武市 半平太に書簡を送って、江戸に呼び寄せたのが文久元年(1861)の初夏であった。

この当時、品川の山内 容堂 公を付け狙う輩が居るらしいという情報。それから、京都の情報では、開港地の異人達の行動に、天子様が悩んでいるという。この二つの問題を解決しようと目論んだのが、盟主武市 半平太 先生の「土佐勤王党」で、政治的に絡む日本で最初の政党といわれ、他藩でこの様な動きは皆無であった。

第19回 奔る密使・龍馬 その2

「土佐勤王党」日本で初めての政党であると前述しましたが、この政党に参画をした、当時の身分社会を見れば、郷士が最も多く、次いで庄屋・神官・僧侶たちであった。ほとんど全てが下士であるが、上士が二人いることは特筆である。

文久元年八月江戸に於いて八名で「土佐勤王党」はスタ―トをするが、白札格の盟主武市 半平太、大石 弥太郎と連判状に墨書した。文政十二年の同年生まれのお二人は旧知の間柄で、同志間では武市は最古参の大将、大石は参謀格であった。

野市の郷士大石 弥太郎は、戊辰戦争では砲隊の隊長として会津まで転戦。明治期は「大石 円」と改名、かつての「土佐勤王党」を忘れ得ず、池知 退蔵や山本 紀三之進らと相計って、永田(南国市立田)に「嶺南香長学舎」を興し、地域の青年たちに教育を施した。これは板垣の「立志社」であり、「有信社」の類であろうが、文武に傑出した御仁で、頑なに勤王党に固執するのは、盟約を信じて散っていった同志達に説明ができない、それ故に、立志社や明冶政府と衝突を繰り返している。彼らを「古勤王党」と云うが「国民派」とも云っている。

この様に筋を通す大石が、日夜眠れずに書き興こした起草文に触れてみよう。

「堂々日本・戎荻の辱めを受け・古より伝わる大和魂は・今や消えなんと、帝は深く嘆き賜う」この書き出しで知識階級の下士等の士気は高揚「戎荻の辱め」の文言に、非常な憤りを感じている党員たちの心情は、充分に汲み取れます。

後に続く文言は省きますが、要約すれば、容堂公を気遣い、天子の嘆きは党員を挙げて果すとあり、盟約文には「勤王党」の全霊を捧げる、その気概を見る想いが伝わり、若き志士らで「実践躬行」を、その想いが強く感じ取れます。

文久元年(1861)の秋、土佐に帰った半平太は、親戚筋の龍馬に党のことを話しただろう、連判状には九番目に名を連ねているが、血気の土佐人達百九十二名が、尊王攘夷を叫び、二年余りを侠気の如く奔り廻って、その多くが闘争に斃れ、ある者は間違われて自決や「暗殺」で、明治を見たのは僅かであった。

五年後の「東奔西走の龍馬」のイメ-ジに押されて書きづらいが、一人の党員として友人を誘ったのであろう、三才歳下で頭脳明晰な同志「近藤長次郎」がいる、生家は坂本家の西、通称を饅頭屋の長さんと呼ばれ,藩の推挙で上士の家僕として江戸へ遊学、後年龍馬の「亀山社中」で実力を発揮、経済同盟で功績を残し、その謝礼でイギリス渡航の計画を糾問されて切腹をした。29歳

今、長崎の皓台寺の一角に埋葬されているが、ご子孫の多くが西洋人と結婚

この事件は龍馬の、薩・長同盟締結の、僅か二週間前の悲惨な出来事であった。

第20回 奔る密使・龍馬 その3

土佐藩の実権は、隠居容堂公が握って、参政吉田東洋の藩政改革を支えていた。しかし門閥派がなにかとうるさくて、改革は頓挫寸前であった。この様な例は土佐に限らず、何れの藩でも同じで、財政を狂わすのは参勤交代であった。

尊王攘夷を叫び、混迷な幕末のこの時期、将軍は落ち着いて江戸に居づらくその上病弱であったので、この数年後参勤の制度は廃止となっている。

政治の中心は京都に移り、京都の情勢を聞くに付け、逸る士気を抑えつつ、同志たちは悶々の日々を過ごしていた。そんな或る日、新町田淵地区の道場から緊急の布令が、同志たちの連絡網で届き、それは結党後初めての会合であった。

盟主の挨拶のあと、重大な意見を読み聞かせ、同志に賛否を求めたのである。

①数名が京都に常駐して情報を集める
②他藩へ行き意見の交換と密書を持参
③中国・九州へ遊歴
④一藩勤王論
⑤参政吉田東洋について

以上で報告は終わったが、誰一人異論は唱えなかった。それ程に同志一同が、緊迫した状態の中で、新しい文言が次々と出てくる度に、感嘆の声を発し、道場内は緊迫した状態で会は進み、武者窓に月の光と風が差し込み、行灯の炎が揺れていた。

新町田淵の道場跡として、今は、瑞山公園の北東に碑があり、半平太祭りを催し、若者たちは往時を偲び、日本の夜明けは此処,采園場の一角から始まった。それらの事を観て口伝する、貴重なイベントに育ってほしいものである。

文久元年十月初旬、二回目の会合が開かれた。前回、提案をした京都駐在の同志は直ぐ決まったが、単独行動で密使を携える、その様な前代未聞の役目には、誰しも敬遠気味であった。そこへ遅れてきた龍馬が身を乗り出して、武市さん、わしが行こうと思うが、どうですろう、かまんかよ、この発言は単刀直入で、同志たちは驚くが、人選びに窮していた盟主は、内心ほっとするも、部屋住みの龍馬では、権平兄さんが、長州行きに許可しないだろうと思っていた。

養育人の許可を必要とする江戸期では、龍馬は、兄権平の許しが必要である。このために盟主と龍馬は、許可の出そうな戦略をたてた。それは、剣術の修行に行く、四国の果てが良い、書簡の出せ得ない辺鄙な道場はどこにするか、それ等を勘案して立案したのが、修行先に讃州は丸亀城下の矢野道場と決定、単身で路銀は何両と決め、滞在は何日として兄に報告、そして路銀をもらった。

しかしこの立案の路銀では、長州の久坂義助〈玄瑞〉に会えず、芝巻の田中良助に、金ニ両を借りたのであった。長州の久坂玄瑞は、過激と行動力を以って維新に導いた。その偉人に密書を届ける青年龍馬は、誠に誠に誉れであった。

written by 今久保