第1回 坂本龍馬

幕末文久二年(1862)京都は尊皇攘夷を唱え天誅や暗殺の輩がいた。土佐でも不穏な空気が渦巻く同年三月、青年が友を誘って土佐を脱藩した。思いはずれて江戸へ行く。京都に留まれば後の彼はない、ここが彼の運命だろう。江戸は剣術の修行で二度行き数年を過ごした。脱藩者は無名の坂本龍馬である。

余談を添える。当時の江戸三大道場は、「士学館、鏡新明智流桃井春蔵」「玄武館、北辰一刀流千葉周作」「練兵館、神道無念流斉藤弥九朗」を指し、「位は桃井、技は千葉、力は斉藤」という評が明治以降に広まったという。

千葉周作の弟、定吉も道場を開き門人であった龍馬は行き場を失って師匠に事の顛末を話した。子息の重太朗とも再会を果たし急遽師匠の知人を尋ねた。その知人は当時海軍の第一級の人物で(技術は中浜万次郎)あった。

後日その縁で神戸海軍操練所に同郷の望月亀弥太と入所、勝塾の塾頭として、技術は無論規律その他で範となるも、海軍操練所は急遽閉鎖した。その原因は京都三条小橋西袂の旅籠、池田屋に起こった、尊王浪士と新撰組の乱闘事件に操練所の熟生である望月亀弥太が関係、もう一人は岩目地の庄屋、北添佶磨である。

この池田屋騒動事件で被害にあった土佐人は藤崎八郎・野老山梧吉郎を紹介。芸西の野老山梧吉郎は女優の栗原小巻様の縁者であると聞く。他藩で有名な肥後の宮部鼎蔵・長州では吉田稔麿がいる。彼は久坂玄瑞・高杉晋作・入江九一とともに松陰門下の四天王と称されて、若干23歳の逸材であった。

閉鎖となって行き場のない龍馬たちは勝の根回しで塾生たちと、長崎で亀山社中を設立、薩摩の支援で、西南の雄藩へ、銃器・蒸気船その他を周旋、日本初の商社が誕生、やがて英国人と初めての取引へと世界観を広め進むのである。

安政の開国後門閥家の世襲制は、社会の変化に対応できず、能力のある人物を求めた時代で就中、蒸気船を操船する才能が当時は第一級の技術であった。

当時の社会は尊皇攘夷で、京都を走り回る輩が目に付くが、社中の彼らは同じ目的を掲げた集団でも、リーダーの坂本龍馬は世界観の能力を持って人との出会いを的確に捉え、その縁で最大の効果を得る、その一つが亀山社中であった。

坂本龍馬の活躍において絶対的な支援者は、薩摩・長州・彼を育てた越前の殿様御家人の勝海舟・土佐藩では参政(知事)、後藤象二郎である。後藤家はお馬廻り250石の事務官、もう一人は武官の板垣退助で、両氏がいての土佐藩である。

坂本龍馬を育てた人物を紹介。西南の雄藩と共に、土佐藩の生き残る道を感じた後藤象二郎・佐々木三四郎・坂本龍馬は共にライフル銃の必要を知り、海援隊の龍馬に送り届ける役を授けた後藤、海援隊の隊長として長崎から最後の帰郷を果たした坂本龍馬の行動に、ピカリと「光る才能」を記したのでお読みください。

第2回 坂本龍馬が愛した長崎

慶応3年(1867)は大きく歴史の動いた年で、東奔西走の坂本龍馬は、参政後藤象二郎や土佐商会、岩崎弥太郎の情報を受けて、隊士の見聞と比較・分析、隊の方針を西南の雄藩に喧伝、同年の夏海援隊は、運輸で活動を再開する。

龍馬が愛した第二の故郷長崎は、安政の開国後更に発展を遂げる。この街は江戸の初期、幕府の政策で中島川(江の口川より小さい)の河口に、出島(15,000㎡・4500坪)を造成、1641年肥前の平戸からオランダ人を移住させて国交を結び、西洋の情報を取り入れた。それまでは海に面した寂しい寒村であった。

日本はオランダ・清国(異民族の満州人)以外の国と鎖国、出島が窓口で文化・文明を受け入れ、特に八代将軍吉宗の命で、青木昆陽は蘭語を学び「和蘭文字略考」を著し、江戸中期の学問は、漢学から蘭学へ、医術も漢方から蘭方の学問を求める人達も現れた、それは漢学の荻生徂徠が合理主義を唱え、学問の世界へ現れた一つの例で、貨幣経済の発達が世の中を少しずつ変えていった。

開国後、長崎へ海軍伝習所や医学伝習所を開設、幕府の顧問として2度目の来日をしたシーボルト(ドイツ人)先生や、ポンペ先生に西洋医学を習い、坂本龍馬の時代はボードウィン先生で各人は偉大であった、しかしオランダ語で話す、それをノートに書き写す、若き日本の医師達も偉大であった。

アジアの深い霧の中から、開国によって抜け出した日本の、神戸・横浜・長崎の街へ各国・各藩の進取の気性に富む人達が溢れ、土佐藩は参政後藤を先頭に、貨殖局を設けて外貨を稼ぐ、それは土佐にある楠で大木は皆伐、自己所有の楠もそれに含まれ、楠から採る樟脳は用途が広く、特に無煙火薬の原料として、絹と共に外貨の稼ぎ頭であったという。

長崎は坂の町で、元同志の近藤長次郎の眠る皓台寺へ坂を下り、墓前で額ずく龍馬は長次郎に囁くように、わしが留守で長さんを庇うことができずに辛かったのう、今度土佐へ帰るから「おまん」と同行ぜよ、家にも連れて帰るから待ちよりや、と語り終えて寺を後にした、優しい龍馬のその背中へ、十二夜の月が木漏れ日のように弱々しく照らし、辺り一面は寂しい墓地に変わっていた。

2年前に「亀山社中」最大の取引の依頼があった。長州へ「銃器と船」を引き渡す周旋であるが、その方策は一旦英国人から薩摩名義で購入をして、後日長州に引き渡し、長州からの返礼は米を薩摩へ送る、その大役を社中の営業部長として長次郎は取引を一任された。

無事大役を果たして伊藤俊輔(後の博文)と面談、伊藤はその謝礼として金子を長次郎に与えたと云う。この金銭を持って洋行を計画、それを問われ、仕方無く切腹をした長次郎であった。29歳

第3回 オランダ領事館

安政通商条約(1858)の締結後長崎の出島では領事館の一部を商人達へ賃貸に、島の出入りは自由であった。坂本龍馬たちはオランダ商人ハットマン商会の看板を目指し「海援隊の祐筆長岡謙吉」と通訳の平蔵を伴って橋を渡って行った。

そこは石造りの蔵(二度視察)で、如何なる輩も襲えない堅牢で、ガードマンが常駐、銃器商人は用心深く、初対面の龍馬は通訳の平蔵を介して挨拶を交わした。大らかなハットマンは握手を求めた時、流石の龍馬も照れながら握手を受け入れて手を差し出してハットマンと意気投合、すぐさま商談を進めた。
ここで欧米の銃について、ハットマンのミニエー銃(当時の最新式銃)は先込め式のライフル銃で、射程と命中率は高いが連発銃ではない。当時のヨーロッパは、大砲も小銃も、銃身内に施条を刻み椎の実型の弾を回転さしてマッハ2で飛ぶ、しかし連発銃は、銃社会であるアメリカに先を越されていた。

1860年咸臨丸が太平洋を横断してアメリカへ、その年アメリカは「スペンサー」七連発・十三連発銃を開発。(ドラマ「八重の桜」で八重が撃っていた銃)その後南北戦争が勃発、この戦争が銃器の開発を推し進め、ウィンチェスター十三連発銃や、二十連発騎兵銃を量産、特にウィンチェスター1873年式は名銃で、明治100年の記念銃として1挺10万円で販売。(機関部は金張り)

通訳の平蔵はハットマンへ、ミニエー銃1300挺と弾を注文、その支払い額にお互いが不満、結論に至らずついに龍馬は、1挺14両2分(4分で1両)と平蔵に伝えて、ハットマンへ握手を求めた。此処に代金18,850両で、銃の商談は成立を見た。(現在は一両60・000円位で計11億31・000・000円位だろう)

次に支払いの条件で、ここから偉大な坂本龍馬が見えてくる、その詳細は薩摩の商人、広瀬屋丈吉と鋏屋与一郎、この商人に5000両を借りて、1000両は海援隊の金庫へ、4000両を手付けとしてハットマンへ、14,850両の残金を今日(9月14日)より90日後に為替で支払う。この内容で渋々ハットマンは承諾をするが、本来西洋人はゴールドの金で決済をしてきた、その長い歴史があった。

日本人が初めてゴールドの金で、物を買ったのは非常に独断かも知れないが鉄砲の伝来の時であり、それ以来ゴールドであった。しかし今日の為替で取引が成功したのは、西洋人が持っている商人たちへの評判で、押し並べて日本人は怜悧、そして約束は違わせない、その信用は、国交を結んだ出島以来のことで、オランダ人は全て心得ていた。

土佐藩お抱えの「海援隊隊長」と雖も、西南のある藩に於いてのみ通用、オランダ商人を相手に、大金の77%を為替で支払う、その取引を成立さした坂本龍馬を、経済学者・歴史学者は非常に高い評価をしている。彼本来の才能であろう。

第4回 長崎を出航

慶応3年9月初旬、薩摩と長州は倒幕に向けて、幕府の監視を避けるため、薩摩の蒸気船に長州兵を乗せて京都を目指していた。その行動は下関の会談で桂さん(当時は木戸準一郎を名乗る)と話した内容は極秘で、「薩・長動く」の報を確認して龍馬は決断、各隊士それぞれに指示を出し月夜の中、祐筆の長岡健吉を連れて、長崎は坂の多い街で、土佐藩重役の役宅へ向かった。

参政「後藤象二郎」(伯爵)・大目付「佐々木三四郎」(候爵高行)の2人と会談、薩・長の行動に意見を交換、ライフル銃の購入と、土佐へ送る方法も伝え、土佐藩の重役へ渡す書簡も受け取り、佐々木の下横目(刑事)岡内俊太郎を密偵として、土佐へ同行の許可も得て、激動の時代で、浪人でも御重役と会談できた。

帰郷する一行の人員に触れる。海援隊長坂本龍馬・同隊士中島作太郎(男爵信行)・岡内俊太郎(男爵重俊)・公家侍・戸田雅楽(うた・男爵尾崎三良)薩摩の商人広瀬屋丈吉の5人である。

この商人と鋏屋与一朗に、5000両を借りており、ライフル銃100挺を抵当に渡し、200挺は隊士の菅野覚兵衛(龍馬の義弟)に、100両を添えて下関から別行動であり、土佐藩へ持ち帰るのは1・000挺であった。

以上の積み荷の準備を終えて出航をした船は、芸州浅野公に傭船した蒸気船「震天丸」(長さ45m×巾6,5m・喫水3m・80馬力・181トンイギリス製)で芸州藩の操船技術は未熟で、海援隊の指導を求むその条件があり、特に蒸気の上げ・下げと、逆波の舵の取り方に注意を払い、各岬の常夜灯の確認その他を指導、初めての航路で海図も無い状態でも、帰郷に逸る龍馬がそこにあった。

長崎や下関の見聞では、西南の雄藩と、土佐藩の武器の質に大差があり、肥前佐賀藩のアームストロング砲(施条式破裂弾)の威力に驚き、先月の下関会談の折、土佐は雄藩であり、薩・長・土三藩をもって京へ入る、その約束が木戸さんとあって急遽ライフル銃の購入と輸送、更に薩・長の行動を藩へ伝える、大きな目的の帰郷であり、水夫たちはこの数日を操船技術習得の機と捉え、坂本龍馬の言語を全て筆記、一挙手一投足に注目、塩飽諸島出身の水夫たちの機敏な連携が、船足を速め、龍馬得意の無駄の無い、合理的発想の指導力であった。

震天丸は荒波を物ともせず北上、五島列島から玄海灘に差し掛かっても、北風は吹き続け、帆船には無い蒸気で走る船の魅力を感じつつ、下関の常夜灯を前方左舷に捉え、水夫頭の寅蔵は龍馬せんせーいと、舳先へ走り依れば、水夫たちもそれに続き船内は喜びに沸いていた。慶応三年九月二十日、朝靄の中を進んで行く震天丸の勇姿がそこにあった。龍馬暗殺の二ヶ月前のことである。

第5回 震天丸、桂浜沖へ

長門と周防の2カ国があった今の山口県は、防長二州であるが、幕末史では全体を長州と呼び、支藩である長府藩は下関(赤間・馬関)が重要な場所で、北前船や他の船は、赤間関運上所(税関)を通過、重量税または重価税の徴収と、物資を積み降ろす場合は一泊を要す、それ故に町は賑わい、五万石の長府藩は運上金の収入で実質十五万石の経済であったといわれる。(学芸員田中氏談)

その下関へ震天丸は寄航、運上所の手続きが手間取って一同は夕方、「大年寄」伊東祐太夫の屋敷を訪れ、慇懃な挨拶を交す坂本龍馬は、お龍の礼を厚く述べ、この先も畏愛の心を忘れずと心に誓う。

翌日は竹崎の白石正一郎邸を尋ね、生前の高杉の人と業を語り、革命の前夜に倒れた親友を悼み、竹崎を後にした。

奇兵隊の創設者高杉は、俗論党(保守派)を退け藩論を倒幕に統一、若干28歳の天才晋作を、豪商白石は可愛がり、資金面で援助を惜しまず、また長州へ奔った土佐の志士達も、この豪商の世話になったといわれ、明治期に赤間神宮の初代宮司で、静かに志士達の霊を祀っていた白石を、旧恩の礼節と称し訪問をした、数名の土佐人もいたと、古老の口伝は今も赤間で生きている。

伊東邸・白石邸で数日を過ごした龍馬は、お龍を連れて赤間神宮で二人の出会いを回想しながら、石段を歩みその度にキュッ・キュッと長靴は軋む、その音は秋風に消えては生まれ、初めて聞く周りの人は、その「旋律」と「音の風景」の心地よさに、龍馬の足元を見て、不思議な履物の若者がいると思った。

慶応三年九月二十三日、百両と二百挺のライフル銃を隊士に渡し、大阪で再開を約し赤間関で別れ、震天丸は東進、左舷に壇ノ浦や前田の砲台跡を見て、四年前この海域で米・英・仏・蘭と攘夷戦を決行、藩の力が今も衰えぬ長州は、今京都を目指しているが、土佐の遅れに焦り、船内を往き回る龍馬であった。

豊後水道を南下、足摺岬を東進するもやがて戸原の沖へ、同年九月二十五日丑三つ時(午前2時過ぎ)隊長の坂本龍馬は頭の寅蔵を傍に呼び、前方に見る常夜灯の沖に停泊の指示を出した。

その常夜灯は桂浜の龍頭岬(龍馬像の場所)で今の灯台の役目を果たし、幕末近くになって幕府の外国船打ち払い令で、土佐の海岸に設置された砲台は数多く、近辺では前浜・十市にもあった。龍頭岬には砲台(火薬庫の跡がある)・狼煙場・常夜灯(灯台)が設置されて、数名が常駐をしていたと云われているが今はその片鱗は何も無い。

その岬の沖に停泊の蒸気船を、種崎の浜で見た人物がいた。仁井田の土佐藩御船頭中城助蔵さんでそれは次号に譲り、震天丸は込み潮を待って左にゆっくりと曲り西進して、浦戸湾へ入って行った。朝の七時前の事と云われている。

第7回 坂本龍馬、会談を重ねる

二十六日城下より帰った岡内俊太郎は、ご重役の反応を坂本龍馬へ告げる。其の概要は、書簡の差出人と文言の重大さに、大殿と十一家のご家老で議を開き、お馬廻り格の重役三名を選び、今夕松ヶ鼻番所隣の茶店で龍馬と会談である。

此処で龍馬の身分であるが、二度目の脱藩罪は、長崎で後藤象二郎から許されても城下にその報は無く依然として脱藩の身であり、江の口川を上り暗くなってから、芦の中へ船を止めて、番所近くで指示された茶店に入っていった。

江戸期にお城下へ入るには東は山田町の番所・西は思案橋の番所、海に面した松ヶ鼻番所は、船を利用する人達の番所で、それゆえ人の集まる町で、当時は茶屋と称した花街が、軒を連ねていた。其の茶屋の暖簾を潜る龍馬は坂本家の違い枡の家紋の羽織と袴の正装で、お女将の案内で部屋に通された。

右手に太刀を持ち、八畳の間に入ろうとするも、部屋には上士格と思し三名が背を向けて正座、部屋を間違えたと思い無礼を詫びるや刹那、坂本殿お入りくだされ、と渡辺弥久馬は床前に郷士の龍馬を招いたのである。

お馬廻り三名は歴とした藩の重役である、京都情報と銃器買い付けに対して、その功績で龍馬が主役で会談が行われ、この場の身分的差別云々は不問、一介の郷士であっても藩お抱え「海援隊」隊長として龍馬を遇しており、土佐藩が彼の才能を優先とした表れであった。

それは二年前の五月勤王党の党首を弾圧し終えてから、初めて気がついたことで、それは藩重役の愚かな所業であった。

渡辺弥久馬(「参政350石・明治期斉藤利行(つら)官吏」)と本山只一郎茂任(「大監察」)そして森権次(150石)たちは、上座の龍馬を見据えて、この度の坂本殿の遠路に及ぶ早々のご注進、大殿は痛く感じており、その一行を労うようお言葉を頂いておる故、我等が出張った次第で御座る。と渡辺が告げ、今夜は我等と酒酌み交わし、長崎や西南諸藩の情勢を、貴殿の見聞として我等に話して下され、と龍馬の言質を本山は求めた。

それらの流れを一部残らず祐筆に逸る森は、懐中より矢立て墨筆を手に取り周到な準備で書き取る、方や龍馬は床前で両手を突き、二方の口上を聞き入っていた。

これは主客処を替へる、珍奇な形態であったが(下士が床前に座り手をつく)それは下士が自然に取る、上士への礼儀であって、脱藩の身でも礼は弁えている坂本龍馬である。

幕末土佐において上士・下士が一同に会し藩を語り助言を請い長崎の情報と、持ち帰った銃器の買い上げなどは、初対面の挨拶では語れず、後日の会談(明日吸江寺)を約し、家中の同胞・竹馬の友か、後は雑談を交し深更に散会となった。

第8回 吸江寺の会談

昨夜松ヶ鼻の会談は格式ばった儀礼的で、今夜の交渉は土佐藩が先発の薩・長と歩調を合せるか否かの重要な会談で、龍馬は後藤参政・佐々木大目付の名代でご重役と二回目であり、そこは人の目が遠い五台山西麓に建つ吸江寺であった。

この様に場所を変える龍馬は、下横目や捕吏に気づかれぬよう注意が必要で、昨夜ご重役に通行手形をお願いして今夜受け取る用意であった。

臨済宗妙心寺派「五台山吸江寺」は禅宗の寺として鎌倉時代後期の文保二年(1316)夢想礎石が開く。幕末時代の吸江寺は七堂伽藍が建ち並んだ大寺院であって寺領も多く、藩主菩提寺の「日輪山真如寺」(曹洞宗)と並び称されていた。

余談として津野山郷船戸の少年二人に入山させて、夢想礎石はよく教え、後年二人は京へ登り「義堂周津」・「絶海中津」を名乗り、五山文学(京都)の双璧と謳われ、時の三代将軍義満の政治顧問であったと歴史は伝えている。

更に江戸時代、野中兼山と絶蔵主(後の山崎闇斎)は南学の学窓を巣立ったが、兼山没後藩は南学を禁止(南学の四散)、それゆえ闇斎は里の京都へ帰り塾を開く、門弟は数千人で神道と朱子学を融合させた垂加神道を興し、江戸前期の大学者で、会津の殿様「保科正之」の侍講も勤めた。

この様に四散した南学は他国で花を咲かせたと伝わっており、「谷丹三郎重遠」(秦山)の師匠でもあった。

五台山北麓のお旅所(神様のお宿)で小船を降りた坂本龍馬は、船子に一時余りこの地で待たせ、天保銭(百文)を渡して山に消えていった。

山門を潜れば修行僧が待っていて、足元を照らした提灯は吸江寺と書かれ、その文字の揺れを見ながら歩を進めた龍馬は、見えぬお城下を見据え、目頭に滲んだ涙を堪えていたが、いまだ帰れぬ想いが更に目を熱くして、着流しの袖で目頭を何度も拭った。

脱藩以来五年の感傷的な龍馬がそこにあって、その空気を察した修行層は提灯で招き、所定の部屋へ案内をした。其の部屋には三個の行灯が灯り、昨晩の重役三名が待っていた。

寺務所横の部屋で歴史的な会談で斉藤は、藩庁は貴殿の呼びかけに大評定を開き、三通の書簡で向くべき方向を決め、我々をもって銃器買い上げを決定との報を受けた。

その後大殿の建白で大政奉還は成就。それはこの銃器その他が背景にあって、後の薩・長・土といわれる所以である。

浪人の身で藩を動かす、それは貨幣経済と合理主義の発達で「才能ある人物」が政治と社会を動かす現われで、幕末では坂本龍馬・慎太郎・長州の村田蔵六(大村益次郎)・高杉晋作・伊藤俊輔(博文)などで、伊藤の言質であるライフル銃は長州が買い受ける、その「文言」に「ゆとり」の坂本龍馬と、慌てる土佐藩があった。

翌年の1月3日、鳥羽伏見の戦に致道館を出発、龍馬のミニエー銃を携えて行く。

第9回 ① 半船楼の会談

松ヶ鼻の茶屋で始まったご重役と重ねてきた会談は順調で、昨夜の吸江寺で余裕のあった坂本龍馬と、渡辺殿たちは焦りと不安が重なって言葉も少なかった。

家中の侍の多くは直接にして物を買わず使用人で用を足してきた。それは家代々の慣習であって、此度の三氏は歴としたお馬廻りの上士で藩の重役であり、買い物その他においてその支払いの仕組みや商法がわからずに慌てていた。

商家才谷屋三代目の直益が長男兼助を分家させて町人郷士となった。その四代目の次男龍馬は貨幣経済において非常に明るく(ハットマンと支払いの件で既説)隊長の立場として、藩庁は今何を如何すればよいか、手に取る如くわかりそのために銃器を持ち帰ったのであって、其の支払いの期日・方法について龍馬は極静かに自然体でゆっくりと三氏の御重役に説明を始めた。

ご重役の開口一番、さすれば坂本殿、其の大金は後日の十二月十四日の支払いで御座るかと問いかけた、その本山氏は戦国の武将「本山茂辰」のご子孫で武士道(「忠誠・信義・尚武・名誉等」)は格式が大事で、貸借は誠に不慣れであった。

余談であるが各藩の多くの志士たちは、明治維新後に栄達、その経世家たちは、薩・長・土・肥といえども元は、低い身分層の人が多かった。

龍馬の諭すような言質によって気分が晴れたのか、三氏とも急に元気となり龍馬殿一献差し上げるので飲まれいと、三氏のこの場の空気の温度差には、荒波を乗り越えてきた龍馬でも、さすがに驚き上士達が可笑しくも思えた。

三度目も会談の場所を変えた。そこは五台山「竹林寺」の門前で山の南麓、坂本(地名)の料亭「半船楼」、ここは浦戸湾の最奥部で下田川の河口にあり、物資が集散する場所で人の往来が多く、船宿・木賃宿・料亭その他で一種の門前町の形態があったが、物資の輸送が変わって往時の姿が今は何も残っていない。

半船楼では今後の見通しがつき、この三日間において重役として面目が立ち、その開放感なのか彼らは江戸・京都以外を知らず、長崎の町や出島の異人の生活の習慣・言語・風俗・風習・その他を聞きたがり、無礼を詫びながら今までの見聞を竹馬の友で、主観も入れながら延々と半船楼で熱弁の坂本龍馬であった。

当時は西洋の文化・文明を多く受け入れた人物を求めた才能の時代である。その才能は子どものころ仁井田の二人(川島・中城)・河田小龍らの見聞で培われ、脱藩後・幕臣の勝・大久保一翁・越前の殿様・他藩で官僚の人物・豪商らによって磨かれた。
当時は身分社会で龍馬の人脈は稀有で、受け入れた人物も合理的主観を持ち、時によって身分社会が邪魔と感じた渡辺弥久磨・本山只一郎・森権治の3氏で、この時点で崩壊する幕府を感じるは、さすがにいないだろう。

第9回 ② 最後の会談

最後の会談を半船楼に開く、土佐においては脱藩の身で、その為に転々と場所を変えた。今夜は良い返事あり、と想い早く出かける。先日と同じ上士で既に着座。龍馬は口上を述べて重役たちへ、ご返事をと切り出す。

渡辺・本山・森氏は笑顔であり、長老の渡辺は、坂本殿この度の働き、ご隠居は強く感じており、明日、主たる重役を招き散田屋敷に大評定の運びである、と返事をうけ賜る。

更に、近き日の拝謁、叶うであろう。と、告げられて、平伏した龍馬は、感涙をこらえながらゆっくりと、ご隠居さまには、望外なお言葉を受け賜り甚だ以って、幸せで御座ります。御重役様に於かれましても、度重なるご配慮を受け暑く御礼申し上げます。

この度は、銃器を藩へ納入、それが目的であり、交渉は有利にすべく、長州、桂氏と海援隊、隊長の密書二通を藩庁へ差し出す戦略。そして、その前に重役たちに見せて動揺をさす。そして会談を有利に進める、その戦術とした。この度の行動は才能の成すことで、龍馬にしては自然態であった。

昨夜の会談に、充分たる手応えを感じて、今朝はゆっくりしてから、船頭一同を集め、是までの労をねぎらった。この度の帰郷は、芸州浅野候の蒸気船、震天丸を傭船、船頭及び水夫たちに操船を指導する、その約束もあり浦戸入港は船頭の主導であった。芸予諸島の急流に育った男たちでも、大型蒸気船の操船技術は未熟で、それを補った龍馬であった。

思えば数年前、神戸海軍操練所へ入るまでは、操船の知識は皆無であった。人との出会いによって、今では蒸気を起し、操船術をもって他藩の船頭たちに、指導をするまでになった。

いよいよ明日は生家へと、その嬉しさよりも、脱藩、という非常の手段で国を抜けて5年になる、継母や兄、姉たちに安心を、そして今置かれている自分の立場を、伝えたくて龍馬の心中は、穏やかでなかった、

土佐藩お抱えお船方、中城家当主助蔵にはこの度の仔細を話し、明日藩庁へ銃器と弾薬の受け渡し一切を任せてあり、お船方大勢の人夫たちは手際よく荷捌きをして小船に積む。

この船は明日土佐藩御用達の幟を船首に掲げ、三つ頭の番所を抜け、運河を北上、木屋橋と播磨屋橋を潜り、使者屋橋界隈にある藩の蔵へ運ぶ予定であった。

土佐藩のお買い上げになる銃、この銃はフランスの軍人、ミ二エーによって開発されたミニエー銃で、この当時のヨーロッパでは、連発銃は開発されず、先込め式のライフル銃であった。

余談としてアメリカは1860年、元込め式7連発のスペンサー銃を開発、その後ウィンチェスター銃の13連発と20連発の、歩兵銃や騎兵銃を開発。それは61年に勃発した南北戦争が、開発を推し進めた。

やがて終戦、その後のアメリカは、西部開拓の時代となり、1873年式のウィンチェスター銃は、余りにも有名なライフル銃であった。

話を戻す、この弾はどんぐり状で、銃身の内部にある三本の施条(ライフル)によって、70センチの銃口まで1回転半で発射、音速の2倍で飛ぶ。

土佐藩は前年(66年)、1500挺を購入、そしてこの度1000挺を、全て洋式銃

第10回 坂本龍馬・生家へ ①

三十三歳の短い生涯であった坂本龍馬は、幕末混迷な時代に志を持って友と脱藩、行く当ても無く知人のいる江戸に行き、千葉家の縁によって初志を変えざるを得ず、当時は考えられない幕臣の従者として、江戸・京・その他を駈け廻り、神戸海軍操練所で操船技術を学び「蓋し」勝塾の塾頭をも努めた浪士であった。

龍馬が出会った人たちの関係を考えれば、神戸の半年は非常に密度が濃くて、この経験を基礎として浪人集団の亀山社中、更に土佐藩の海援隊へ発展をした。

その隊長として土佐へ帰って来た龍馬は、事務的な件は全て了、仲間の戸田雅楽を伴い、生家を目差して仁井田を北上、潮江川を遡り筆山のお墓(父方の山本家)に合掌して帰郷を告げた。

やがて右にお城が見えたとき高知へ帰ったことを再認識、郷士といえども侍の社会で、上士と同じくお城というランドマークを見ることで心が落ち着き、思考も冴えて子どもの頃を思い出していた。

やがて小船は築屋敷の岸に着いたとき、この川原では姉と遊び水に慣れた少年期によく泳いだと傍らの戸田に話せば、わしも田舎の川に体を委ねたことよと三条家の衛士らしく極丁寧な京言葉で話し、静かな空気が一瞬そこを流れた。

築屋敷を一丁ばかり北に「魚の棚」が、そこに差し掛かった時「龍馬さん」と呼ぶ声に足を止めた、鮎を専門の寅八(「得月の先祖で松岡」)と干物屋の仙吉で、その二人と話す龍馬を見つけた若者は急ぎ足で坂本家へ知らせに走った。

坂本家当主の兄権平は不在で、義母の伊与が姉の乙女と半丁足らずを駆け走り、右に曲がる角に秋葉神社(鳥居の寄進者寅八)がある、そこから南へ魚の棚の通りで(現存)龍馬は母親と姉に五年もの久しき劇的な再会であった。

坂本家は裕福な郷士で、今夜はこの棚にある品で酒宴を張るので運んでほしい、また皆さん方に酒宴の場へ来て帰郷を祝して下されと、当主の依頼であります。と家僕は丁寧に伝えた、この辺りに豊かな郷士の家風が垣間見える。

夜になって酒宴の場に龍馬さんが「もどっちゅう」と、その噂に友人・知人が尋ね、望月亀弥太・池内蔵太の縁者と内儀もきた。亀弥太は神戸海軍操練所の訓練生であったが、元治元年六月五日新撰組が京都三条小橋(「高瀬川に架けた橋」)西の池田屋を急襲その時に斃れ、内蔵太は度重なる戦に参戦、傷も負わず歴戦の雄であったが、帆船ワイルウェフ号の沈没で溺死をした。

二人の話を伝えて龍馬は縁者と内儀の手を取って辛いのう、辛いのうわしも辛かったが二人をよう弔ってくだされと、龍馬の目に大粒の涙が溢れ、すすり泣く二人に堪えきれず泣きそうな龍馬は、羽織の袖で何度も目頭を拭いても涙は溢れ、明日も長さんの家で同じ涙が、帰郷しても落ち着けぬ龍馬であった。

第11回 龍馬・生家へ ②

龍馬は五年ぶりに生家へ帰り、両親と次姉の位牌に帰郷の報告と親不幸を詫び、今までの行動は何であったのか深く考えて顔をあげた。その龍馬の姿勢を義母の伊与と姉の乙女は無言で静かに見ていた。その時外から帰ってきた兄権平が鋭い声で、龍馬は居るかといって足早に八畳の床の間に入ってきた。

ここに義母と兄弟三人が久しい語りを交し、姪の春猪もその輪に入ってきて、龍馬叔父さんお帰りと小さい声で優しく迎えた、その姪の声に今まで沈鬱であった龍馬は我に返り、両手を突いてお母さん・権平兄やん・乙女姉やん、この度の行動を許してください、と小さくも力のあるその声は床の間に響き、許しを請う次男の丈夫さと気力ある姿勢に、位牌の両親は屹度安堵をしたことだろう。

坂本家自慢の入母屋(屋根の形)造りの客殿は八畳二間に並べた膳に、友人・知人・近所の方で溢れ帰郷を祝した。一方同志の縁者・内儀たちも駆けつけて帰郷の挨拶を交したが、その後は下を向いて押し黙った。それは音信不通の身内の事を聞くのは場違いであり、その上真実を知るのが怖かったのである。

悲しむ同志の内儀や縁者らとともに涙した龍馬は、異郷の地で果てた多くの同志を脳裏に浮かべ、明日は訪ねたい饅頭屋長次郎の位牌を、八畳の枕元にそっと置き、長さんよう今夜はわしと寝ながら子どもの頃の話をしてやるから聞いてや、と切なくもあるが話しかけた龍馬の優しさがそこにあった。

生家の西一丁余りに饅頭をもって生業とする大里屋(大忍)があり、三歳下の長次郎は稀有な秀才で、藩が認めて上士の由比猪内の従者として江戸に行き、当時四斎の一人といわれた安積艮斎の門に入る。

この様な例は幕末他藩でも、例えば長州の桂小五郎は伊藤俊輔(農民・後の博文)を「育み」と称した従者にして外交に連れて行き、他藩の志士と交わる場合は長州藩士と名乗り、長崎に常駐をして蒸気船ユニオン号(木船300トン)と銃器の買い付けの責任者であった。

その取引の周旋をしたのが亀山社中の近藤長次郎であって、伊藤は近藤の周旋によって長州は生き返れると確信をして(「当時の長州は外国と取引できない」)長次郎に謝礼金を渡した。その金で英国に渡航しようとした計画が発覚、社中の仲間に強く詰問され致し方なく切腹をして許しを請う。(今皓台寺に眠る)

龍馬はよう起きんかね、と言って荒っぽく布団を剥ぎ取られた目の前に襷掛けの乙女姉やんが、そんな夢を見たその勢いで飛び起きた。藩において功績大の坂本龍馬でも、生家では頭が上がらぬ子ども扱いの姉の夢であった。

慶応三年九月二十九日早朝大里屋伝次の店に行く、勝手を知った裏口に行き声を掛けようと、そのとき板戸が開いて妹の亀が、あっ龍馬さんと声を発した。

第12回家族で墓参

変名「上杉宋次郎」と名乗った長次郎は、隊士の仲間内では頭脳明晰で二番目がいないほどの秀才に、手違いが生じたという。

当時京都にいた坂本龍馬は維新史上最大の功績である薩・長同盟に向けた下工作をしていた。その同盟の締結(慶応二年一月二十一日)七日前に、盟約違反によって上杉宋次郎は賭腹して果てた。

龍馬は長崎を発つ前に、皓台寺の墓前で長次郎を土佐へ連れて帰る約束をした。

その位牌箱を持って早朝に大里屋の勝手口から入って行き、おはよう御座いますと声を掛けようとしたその時、妹の亀と出会った。妹に急用を伝えて朝の勤行中の伝次おじさんに位牌を手渡して長崎の顛末を長々と話し始めた。

大阪の商人の娘徳子に生ませた「百太郎」がいること・隊士としての力量・先見の明・奇才のある隊士・通詞(蘭語・通事は清国語)も手懸け隊に掛け替えのない同志であったことを。しかし位牌を手にして力無く聞く父・娘であった。

昨夜と今朝同志の不幸を伝え身内同然に哀れ悲しみ、その場におりづらく背を向けて立ち去る龍馬に、孫と長次郎の、、、あとは無言で震えながらに問う伝次の掠れた声であった。余談として長次郎の妻徳子に一子百太郎があり、和子更に川邊徳次郎がある。

この様にご子孫は繁栄をしているが、この傍系のご子孫の多くが、カタカナ(米・英・仏)の名前の方と結婚をしている。長次郎は渡英には至らず、数代を経たご子孫たちがその思いを果たし、先祖に変わって極自然的に果たしていると思えなくも無い。また妹「亀」のご子孫も伝わっている。

鎌倉時代成立した荘園に大忍(さと)荘があり、伝次は大忍を大里と書き直して屋号にした?これは筆者の見解で、因みに近藤氏は夜須で反映している。

その後生家に帰って、丹中山(たんち)の先祖の墓参に家族で行った。この丹中山に母「幸」を埋葬の時、少年の坂本龍馬は母恋しさで棺にすがりつき泣き叫んで、姉の乙女が抱いて慰め頭を撫でたことを兄の権平は思い出して、龍馬に話したその反応は、いやぜよ兄やん、わしゃあ33歳じゃきからかいなや兄やん。

墓所は上下二箇所にあり、上は郷士の初代と二代の夫婦墓で、廻りは土用竹に囲まれてうす暗く、鎌を手に雑草を刈るその素早さは、龍馬ならではの仕種であった。

下の墓所は三代目(両親)と次姉「栄」の墓が墓域外の一段高い所に川石数個で密葬。その訳を兄「権平」から聞いた龍馬は、墓標がない栄の墓前に額づき「栄姉やん・栄姉やん」わしのためにすまん、許して許して姉やんと許しを請う龍馬は五年前、脱藩の時に姉から刀を貰った事を思い出していた。

昭和四十二年筆者の見た墓域と、龍馬時代の墓域は同じ。今は開発で上の墓域は下に改葬、一面が歴史公園に整備され墓参が容易。墓地にて墓地に非ず也。