11月3日、中国からの留学生らと佐川町黒岩のリンゴ農園でリンゴ狩りを楽しみ、その後、同町に残る徐福伝説の地を訪ねた。NPO高知県日中友好協会が主催したツアーだった。

同協会の田村さんが調べた「徐福伝説」によると、佐川町斗賀野の郷土史家、明神健太郎氏が編集した「高吾北文化史」の中の「虚空蔵山鉾ケ峯縁起」に次のように書かれてあるという。

この虚空蔵山鉾ケ峯には徐福伝説の記念碑が明神氏の手で建てられている。

西暦前221年に中国を統一した秦始皇帝は、神仙思想を信じ、扶桑国(日本)には「蓬莱」「方丈」「瀛洲」(えいしゅう)の三山があり、仙人が住み不老不死の霊薬を作っていることが分かり、徐福らに日本行きを命じた。

徐福は童男、童女それぞれ3000人、財宝、五穀、器具などを山積した船団を連ねて「煙台」を出発した。

徐福が最初に到達したのは肥前国(佐賀県)の有明海の寺津だったが、その後再び出港、土佐沖で大しけに遭遇、須崎浦の内に漂着した。

傷心に痛む一行は「あれが蓬莱山だ」と浦の内の漁師たちに教えられ彼方の仙人が住むという高山に上った。

漸くにして仙人がいるらしい山頂に上り得たが、日は西山に没したので柴を折り敷いてシトネとした。

「柴折り峠」の名前の由来となる。蓬莱山=虚空蔵山に夜明けが訪れやがて大海の日の出が始まり、一行は期せずして水天万里の故国の空をのぞみ、望郷やるかたなく腰の鉾を高くかざし、抱き合って号泣したという。

「鉾ケ峯」の名前の由来となる。一項は久しく惨状を彷うたが、仙人に逢うことも、仙薬を見つけることもできず、持参した金銀財宝を山上に埋めて山を下りた。

その後、部下の張郎は試行的への報告の爲少人数で帰国の途につき、一方徐福一行は土佐浦をあとにして紀伊の熊野浦に漂着し、農耕、水産や捕鯨の術を教え、その地の発展に大いに貢献した。

徐福を地方民は香美として尊敬し、熊野には徐福廟がある。

高知には幡多郡、秦(ハダ)、秦泉寺など秦由来の地名が少なくない。長曾我部氏が秦始皇帝の子孫と伝えられているのもあながち俗説ではないと思わせるものがないわけではない。

15年前、三重県の津市に勤務した時、何度も熊野市や勝浦市を訪ね、徐福伝説が残る地を探索した。熊野市の徐福墓のある土地は波田須(はだす)という。

昔は秦須と書いた。徐福の墓や廟が存在することが不思議だったが、その不思議な関係が今回、高知県佐川町とつながったのは大きな収穫だった。

伴 武澄