高知を案内するとき、必ず紹介するのが「高知は日本のデモクラシーの原点」であるということである。日本におけるフィラデルフィアが高知というわけで、自由民権記念館がある。記念館のある電車道路を「民権通り」とも呼ぶ。

日本はデモクラシーという外国語を三回、翻訳した。最初は「民権」と訳した。中国の革命家の孫文は三民主義を掲げた。その中の一つは明治期に生まれた「民権」という概念だった。日本で作られた新しい造語語をそのまま中国語に移入したのだった。大正時代になると「大正デモクラシー」という言葉が流布した。「民本主義」と言った。天皇主権の国家でさすがに「民が主」という表現ははばかられたのだろう。「民主主義」という訳語が広まったのは戦後のことなのである。日本ではこの150年間、「民権」「民本」「民主」とデモクラシーを使い分けて来たわけだ。

明治時代に自由民権と最初に言ったのは誰だか分からないが、明治期に自由民権運動を指導したのは明らかに高知県の人々だった。板垣退助を中心に立志社が誕生し、国会開設に向けた運動は高知から始った。植木枝盛は大日本国国憲按という憲法草案を書いた。天皇を中心に300藩による連邦国家を想定した。憲法が「官僚を縛る」という原則も当然のことながら、国民による革命権まで盛り込まれた。のちにプロシア憲法をまねて伊藤博文らつくった大日本国憲法とはまったく違った概念をつくりあげていた。植木枝盛の旧宅は取り壊されて今はなくなったが、ピンク色の書斎が記念館に移築されている。

立志社という政治組織は、いま中央公園となっているが、天賦人権を宣言し、人民の知識の発達、気風の養成、福祉の上進、自由の進捗を目的として掲げ、国会期成同盟の中心的役割を果たした。『海南新誌』『土陽雑誌』『土陽新聞』を発行し、立志学舎では、福沢諭吉の慶應義塾から講師を招き英語による民主主義的政治教育を行った。交通機関が汽船しかない時代に民権思想を持った有志は高知に集ったというからわくわくする話である。

坂本龍馬もいいが、高知を訪れたらぜひ、自由民権記念館を参観するようおすすめしたい。ちなみに明治期に東京で最大の発行部数を誇ったのが高知出身の黒岩涙香が創刊した「萬朝報」(よろずちょうほう)だったことも覚えてほしい。内村鑑三や幸徳秋水、堺利彦を論説委員として迎え、日露戦争では唯一、反戦論を張った。政治色が濃かった当時の新聞の中でスキャンダル―をすすんで掲載し、政治家や経済人を震え上がらせた。「三面記事」の呼称の由来は萬朝報による。自身で英仏の推理小説を日本版にリメイクし連載した。いわば新聞の連載小説の嚆矢といえよう。ユーゴーの「レミゼラブル」を「ああ無情」と題して翻訳連載したのも黒岩涙香だった。

伴 武澄